15.実験室




 あぁぁ、お腹痛い………。


 環状線、鶴橋駅を降りたあたりから、めっちゃお腹が痛い。近鉄に乗らないといけないのに、体は全力でそれを拒む。


 いつもは先頭で駆け抜ける改札も、この日は最後尾……。数多くの学生の背中を見るとさらにお腹が痛くなった。


『みんな、俺の事知ってるんかな?』


 心の中でそっと呟く。


 俺の写真が載った学内誌。

 配布日初日で絶版かつ回収となった、超プレミア級の伝説的学内誌。しかし、たった一日しか置かれていなかったにも関わらず、意外と多く持ち帰られていたそうだ。


 後期授業初日やし、誰も知らんやろ?

 とは言いつつも、やはり気になってしまう。


 小さな火種はどこまで広がっているのか?花火に照らされた俺の満面の笑みは、自分が知らない所でも笑い続けているのだ。本当にこの情報社会は恐ろしい……。


 そして何と言っても、教務課と教授会がどこまで知っているのか?俺の配属先である研究室の教授は、知っているのだろうか?


 この日、俺は初めて研究室へ行くことになっていた。前期の始めに配属先が決定したのだが、挨拶もまだしていないのである。


 ここで俺の事を、“挨拶も碌にできない無法者”であったり、“留年により人の道まで踏み外した愚か者”と思うのは早計である。大学生協オリジナル蒸しパンの賞味期限並みに早まった考えだ、という事を知ってもらいたい。


 何も俺が挨拶を拒んでいる訳ではなく、教授からの伝言で、『後期の初回ゼミで顔合わせを行うから、その時に挨拶しよう』と言われていたのであった。しかし、配属が決まって約半年もの間、挨拶をしないというのは社会的に見ても一般的ではないと思う。現に、他の研究室ではすでに、歓迎会などをやっているそうだ。


 少し変わった教授だと聞いていて、それに対しても不安を抱いている。メンバーも何人いるのだろう?全く何も分からない……。


 そんな不安を胸に、録音したラジオ小説を聴こうとボイスレコーダーの再生ボタンを押して電車に乗り込んだ。


『…………?あれ?録音されてない……』


 くっそ!またやってしもた!


 このボイスレコーダーにしてから、三度目や……。録音のセッティング難しいんよ、これ!


 俺は怒りの全てを右手に集中させる。そして、思いっきり力一杯つり革を握った。電車が大きく揺れ、皆がインド映画のダンスのような足取りでよろめく中、俺は右手のみで体を支え、直立不動を成し遂げたのであった。


 ちなみに、皆さんは覚えていらっしゃるだろうか?談話室で圭介と美穂の調査を行なっていた時の事を……。


 あの日、俺はボイスレコーダーを使って彼らの行動を記録していた。録音の容量が足りなかった為、大好きなラジオ小説のハイライトをわざわざ削除してまで!


 しかしあの時、俺は『臭い事件』の犯人のように扱われてしまい、その絶望の中、ついうっかりボイスレコーダーを落としてしまったのだ。


 それを拾わずに談話室を出てしまったものだから、気づいた時にはもう遅し、談話室からは持ち去られ、落し物の受付所にも届く事はなかった……。


 そして“新たな相棒に”と、バイトで貯めたお金を泣く泣く持ち出し、購入したコイツ。


『めっちゃ使いづらいやんけ……』


 あまりの絶望感に、つい声を発してしまった。大学生であろうか、目の前の男女二人組が俺の声にビクッと反応した。なんとも申し訳ない気持ちで、無音のイヤホンを意味なく触り、『今日も早く帰りたいなぁ』と、どうにもならない嘆きを噛み締めるのであった。


          ○


『メンタル!あの席行こか!』


 昼休み。川本と食堂で待ち合わせて、カレーを食べた。窓に向いた席に二人並んで腰掛けると、外の景色は、秋の始まりに相応しいさっぱりとした陽気の中で輝いている。


『研究はどう?もうそろそろ論文に向けて頑張ってる感じ?』


『そうやなぁ、実験は大変やで。でも、手応えはあるし、何とかなりそうかな』


 川本が笑いながらカレーを頬張った。


『百香さんとは、上手くいってるか?』


 俺が茶化すように言うと、『おかげさまで。あの時はありがとうな!』と恥ずかしそうに答えた。その笑顔が戻って本当に嬉しい。


『よかったよ、ホンマに……。正直羨ましいよ、二人が。もうええ加減俺もなぁ………』


 目の前のベンチに腰掛けるカップル。作ってきたのであろう大きな弁当を挟んで、あーん、あーんの応酬が繰り広げられている。極め付けは、口からこぼれたそぼろを指でピッと取ってペロッ。指でピッと取ってペロッ。


 見ているこちらがムズムズ恥ずかしくなるようなド直球恋愛喜劇を横目に、腹の底では“羨望”の二文字が蠢いているのを感じずにはいられなかった…………。


『お、おいメンタル!大丈夫か?』


『…………へ!?なんか言った?』


『口からボチョボチョ、カレーがこぼれ落ちてんで……』


 どうやら俺は、我を忘れるほどに“恋愛”を求めているらしい……。


          ○


『そうか……。そんな事になってたんやな』


 食堂を後にして講義棟に向かう途中、花火の一件で川本の方に大学の手が及んでいないか聞いてみた。


『俺は何ともないよ。教授からも何も言われてない』


『なら大丈夫や!川本と百香さんに迷惑かけてたらどうしよ、って思って』


 とりあえずは一安心。


『でも、メンタル……。ホンマにごめんな。全く知らんかった、そんな辛い状況になってるなんて』


『いや、俺も知ったん最近やねん。……そうや!その事で、またまたビックリする事があってやな……』


 俺はバイト先の中野さんの事を話した。もちろん彼女は同じ学科の後輩だから、名前は伏せて。


『……という感じで、まさか同じ大学の同じ学科やったなんて、まさに驚天動地の大事実やで!!』

 

 俺が、若干キメ顔で川本の方を向いた。


 ん?川本?何でニヤけてんの?


『それなぁ、実は俺知ってんねん。中野さんやろ?』


 シッテンネン???


『俺の研究室の後輩やわ』


 ケンキュウシツノコウハイ???


 とうとう俺は、全てをリセットされた人工知能のように、単語の習得から始めなければならなくなった……。


          ○


 中野さんは川本と同じ研究室に、俺と同じタイミングで配属されたそうだ。


『歓迎会で初めて会って、その後何回かレクリエーションとかでも一緒になってて……』


 その時に、中野さんの地元が俺と一緒な事に対して突っ込んだら、『バイト先の先輩です』と簡単に打ち明けたらしい。


『それやったら何で言ってくれへんかったんよ〜』


 我ながらとても気持ち悪い語尾で川本に問いかける。


『いや、“メンタルさんには内緒でお願いします”って言われとってさ……、おっと、これも言ったらあかんかったかな?』

 

『言ってくれて良かったのに〜。中野さんに内緒で』


『ホンマやなぁ。でも彼女の方と先に約束してしまったし、それに………』


『それに??』


『……いや!なんでもない。それはそうと中野さんはこれから初のゼミで研究室来るはずやで!挨拶しとく?大学内では初めての。』


『致しません!!』


 なんだ!なんだ!みんなして!と、大声を出して頬を膨らませると、川本が『うるさいねん』と笑いながら小突いてきた。


 あぁこの瞬間こそ幸せだったのだ。友人と楽しく喋って、何でもない日常を謳歌して。こんな日々が、なんとなく続いていくんだろうなと思っていた。


 数時間後に不思議な世界を見る事になるとも知らずに……。


          ○


      黒岩教授 実験室


 ただでさえ重たい扉に、重苦しい太文字で書かれた名前。ここが俺の配属先である。


『あ〜、緊張するなぁ』


 指定の時間の10分前だが入ってもいいだろうか?言われた持ち物はちゃんと持ってきたよな?扉の前でもたもたと、やはり落ち着かない。


 黒岩教授……。


 顔はもちろん知っている。ただ、喋った事もなければ、授業を受けた事もない。というよりも学生の前には極端に顔を出さない教授で、その謎は計り知れない。


 ただ、ここの研究内容が自分の得意分野であったから、俺はこの研究室を選んだ。もう俺には後がないのだ。やるしかない!


 勇気を振り絞り、重いドアをノックした。


『どうぞ』


『失礼します!』


 うわっ………。なんやこれは???


 俺の目の前に広がるのは、張り巡らされた配線や何に繋がっているのか分からないスイッチ、理解の範疇を超えた波形を映し出すモニター等々、アポロ宇宙船の内部を思わせるような複雑さがあった。


 なんっや、これ!何も分からん!!!


 この先やっていけるだろうか?という不安が胸を締めつけてくるが、大学地獄から抜け出せなくなる方がよっぽど恐ろしい。俺は何とか前を向いて口を開いた。


『私、こちらに配属となりました、メンタル弱男と申します。よろしくお願いします』


『よろしく。そこ座って』


 随分呆気ない教授やな……。


 俺は指示された通り椅子に腰掛け、この部屋の半分以上を埋め尽くす、謎のアポロを眺めていた。


 あれ……?この音はなんやろ??


 どこかから空気が漏れる音がする。


 え?なに?

 めっちゃヤバいんちゃうん?

 なんか装置おかしなってんちゃうん?


 焦るのは俺だけで、教授は淡々と機械をいじっている。


 この音なんかに似てる……。

 なんやっけ??もうそこまで出掛かってんのに……!


『コーホー、コーホー、コーホー』


 あ!!

 ダースベイダーや!!


『ん?なんか言った?』


 しまった!ひらめきの度が過ぎて、心の叫びが漏れてしまっとった!


『あっ、いえ大丈夫です!』


 ふぅー、危ない、危ない。

 しかし今の教授の発言時、ダースベイダーは呼吸を止めてはいなかったか?


 これはもしかして……?いやいや……。


『コーヒーいれるけど、砂糖はいる?』


『ブラックでお願いします』


 教授がコーヒーをいれてくれるんや、と少し驚きながら、俺は耳を澄ました。


 ほら!!教授とともにダースベイダーも移動しとるって!!コーホーコーホー移動しとるって!!


 かくして、俺の中で黒岩教授はダースベイダーと名付けられたのであった。


          ○


『配属は僕だけですか?』


 少し無言の時間が続いたので、聞いてみた。


『いや、もう一人来るはずや……』


 ガチャ!


 ドアが開く。まるで盗み聞きしていたかのようなタイミング。


『壁に耳あり、障子に目あり、実験室にも耳あり、って感じやな。ハッハー』


 大変つまらなく、テンポも悪い、一番対応に困る、しょうもないギャグをダースベイダーがかましてきたので、そちらを一瞥してから、再びドアの方へ目を向けた。するとそこに立っていたのは………。


『えぇっっっ!!!』


 俺は一瞬で背筋が凍りついた。


 そこにタクラマカン男の姿を見たからである……。


 


 

 

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