第二章
13.中野さん
これは四回生の夏休み、終盤の出来事である……。
○
おっ!スティーヴィーワンダーのベストアルバムかぁ。
半袖短パンで、麦わら帽子着用のお爺さんがレジに持って来たのは、俺もよく聞いていたCDだった。とても懐かしい。
『ありがとうございました。またお越しくださいませ!』
商品を手渡すと、お爺さんは肩にかけていたバッグに手を伸ばし……。
ん?バッグとちゃうな……。なんやこれ?
『これか?孫のちーちゃんがなぁ、ワシの誕生日にくれたんや!どうや、ええやろぉ?』
お爺が自慢げに見せてきたのは、ピッカピカの“虫取りカゴ”であった。その中にCDを無理矢理、詰め込んでいる。
え……?嘘やろ……?
俺は慌てて目を擦った。
だがそこにあるのは紛れもなく、虫取りカゴである。透明のケースに緑のフタと肩紐。
『使いやすくて、重宝しとるんや!』
ワッハッハと笑いながら、彼は店を出た。
俺は大阪梅田にあるぴちょんくんばりに目を丸くして見送る。変わったお客さんは日常茶飯事だが、あんな無邪気オーラ満点のお爺は初めてであった……。
○
ここはバイト先のCDショップ。店の規模はあまり大きくないが、流行りのものや有名なアーティストは一応押さえている。それらの新作発売日などは老若男女問わず来店してくれる他、俺が店長に内緒で密かに発注しているアニメや戦隊モノのコンピレーションアルバムは、ジワジワと地元の子供達に支持されている。誠に嬉しい限りである。
俺は大学時代を通して、このCDショップでしかバイトを経験した事がない。だから偉そうな事は言えないが、こういった経験はお給料以上の価値があるように思う。先程のお客さんを相手にした応対もそうだが、バイト仲間とのコミュニケーションにおいても………
『チッ!』
『ひえっ!?』
俺は、お化け屋敷へ行っても披露しないような、ハイトーンのビビリボイスを発してしまった。
また中野さんだ……。
中野さんに関しては、以前少しだけ述べたことがあるかと思う(第5話にて)。俺の数少ない女性の知り合いにも関わらず、彼女からは残酷的とも思えるほどの冷遇を受けており、彼女が後ろを通る時などは戦慄が走ってしまうのだ。
この日も何で舌打ちをしたのかは、分からない。いや、もういっその事分かりたくないのである。そっちの方が精神衛生上良いだろうと思われる。うん、そうだ。絶対に彼女の方なんか見ないで、この場をなんとか……
『ねぇ、メンタルさん。今ちょうどグッズが入荷したみたいやから、確認と品出しお願いしても良い?私別の売場作るんで』
『はい!かしこまりました!』
あれ?
俺バイトリーダーやったよな?
彼女は年下かつ後輩やんな……?
そうは言っても、この現実からは一切逃れられない。裏店長、中野さんによる絶対的な精神支配からは……。
○
俺はレジカウンターを抜けて、バックヤードへと向かった。中野さんの目から解放されたのも束の間、ホワイトボードに貼られたシフト表が目についた。改めて、この後は誰が来るのか確認してみる。
あれ?今日は店長休みや言うてたな。宮田さんも休みやし、新しいバイトの子も休みっと……。
てことは、閉店まで中野さんと二人っきりやんかぁ!
心拍数が急上昇する。これが恋心からくるものであればどれだけ素敵な事だろう。“バイトで好きな子と二人きり”なんて、一度でも体験してみたかったな………
しかし実際に俺の脳内をジャックしていたのは、恐怖感、緊張感、孤独感、そして若干の空腹感であった。
もう考えても埒あかん!
俺はバックヤードに戻ったのを良い事に、事務所の冷蔵庫に隠しておいたプリンを食べることにした。解決できない苦しい感情ばかりの中、唯一自分で満たせるものだったからだ。
『甘ぁーーい。やっぱり最高やね、このプリンは』
メンタル、サボってるやん!と思った人もいるかもしれないから、先に弁明しておくがここのバイトは休憩を随時、自分のタイミングで取るという風習がある。だからこれは決してサボっているわけではない!決して!
『それにしても、なんであんなに中野さんは怖いんやろか……』
一人呟いて、ふぅ、と息をつくと、この小さい店舗の割に、随分と大層なサイズを誇るCDデッキが目に入った。
これは店内のBGMを流す機械で、店長から使い方の説明は受けていたが、基本的には新譜ばかりを流す。あまり仕様に関しては詳しく知らないが、何かしらの放送を流しているらしい。だが、勿論CDも流せる。
『気分が晴れない時こそ音楽や!』
俺は何か気になる曲を店内に流してやろうと、店舗備品のCDラックに詰め込まれた音源を漁り始めた。
ビートルズ
ローリングストーンズ
メトロポリタン・スパークルズ……?
これは知らへんな……?
気になってCDジャケットの裏面を見てみると、大学生の頃の若き店長が顔面真っ白の化粧で舌を思い切り出している写真があった。
店長……。こんな自主制作盤を混ぜるな。
収録曲には大変興味を抱いたが、さすがに世に流通していないものを店内で流すのには抵抗があったので、これに関してはまた今度店長に詰め寄るとしよう。
なかなか雰囲気のいい洋楽アーティストが並ぶ中、一際目につくものがあった。先程のお爺が購入していった、スティーヴィーワンダーのベストアルバムだ。
実はプリンを食べていたあたりから、頭の中でリピートされていた、スティーヴィーワンダーの“I Just Called To Say I Love You”。
鼻歌まで歌って、俺の心はこの曲一色となっている。
何の迷いもなく、CDをデッキにセッティングした。スマホで音楽が聴ける時代になっても、CDをカチャッとセットする瞬間はどこか興奮を覚える。ドーパミンがダダ漏れなのである。
曲が始まった瞬間、頭から足先まで、何かに貫かれたような刺激と、体が自然に動くような幸福感を味わった。
こんなせまっくるしい事務所でも、瞳を閉じれば、観客で埋め尽くされたライブ会場が浮かび上がる。俺は椅子から立ち上がり、思うがままに踊った。そして、無我夢中で歌いはじめる!
バイト中である事を忘れて、口を尖らせながら華麗にボックスステップを決めていると突然背後に、大変おぞましい気配を察知した……。
体にたくさんの水分が纏わりつく。後ろの殺気とも呼べる気配が事務所の気温を押し下げ、飽和水蒸気量が減少したからだろうか?
それくらい、ひどい寒気を覚えたのだ。
『何やってるんですか?』
『す、すいません』
中野さん……。目が怖いです……!
○
俺はその後、目一杯働いた。テキパキと無駄のない動きで、マルチタスクをこなしていく。
『俺はバイトリーダー俺はバイトリーダー』
俺がしっかりしなきゃ。裏店長に蔑まれたまま終わりたくない!
なんとか折れかけの矜持を保って、閉店までやり切った。いや、やり過ごしたという方が正しいのかもしれないが……。
店を閉めて、暗い路地を駐輪場まで歩く。二人とも無言のまま。あぁ、でも今日は頑張った、頑張った!少し遠くの方では、街の明かりが煙のように揺らいでいる。自転車立ち漕ぎで、早急に帰ろうか………。
そう思っていた時だった。
『あの、メンタルさん』
『は、はい!』
相手は後輩やぞ!俺は何をテンパってんねん!と心の中で叱責していると、中野さんはスマホを取り出し、その画面を俺に見せてきた。
『うん??』
一枚の写真……?少し見えづらい。もうちょっと近くで………。
『な、なんやこれ?』
そこには、講義棟の屋上で花火をぶちかます、満面の笑みを浮かべた俺……。
『メンタルさん、あなたヤバいですよ』
思いがけない通告は、新たに始まる後期授業の、世にも恐ろしい“のろし”なのであった……。
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