9.二枚舌の苦悩 ーそして新たなる影ー


 JR大阪駅で、俺は宝塚線、百香さんは神戸線のホームへと向かう。手を振りながら、お互いの笑顔は虚しく光る。一つの約束が頭から離れないからだ。


          ○


        約1時間前


『川本が浮気?そんな事ありえへんやろ。』


『私もそう思いたいんやで。そう思いたいんやけど、、、』


『やけど???』


 百香さんの顔が俯く。言葉を必死に探しているようにも見えた。鉄板の上で意味もなくコテをくるくるとひっくり返している。その動きは何とも言えず、見ていて苦しい。


『たつやのバイト先に、二つ下の女の子がいて、、、。前から仲が良いのは知ってた。しょっちゅう飲みに行ってるみたいやったし、私も一緒によく三人でご飯行った事もあったんよ。私とたつやは、お互いの異性の友人にまで首を突っ込まない、って決めてるから全然それは良かったの。』


 少し声を震わせながら、自分自身に言い聞かせるように語っていく。


『でもね、この前たまたま学校の帰りに、その子を見かけて、、、。電話してたから声はかけなかったんだけど。』


『電話?』


『うん。それで電話相手と喋ってる彼女の声が聞こえてきて、、、。

“先輩、明日の夜、家に泊まっていってくださいよ〜”

“やった!じゃあ明日待ってますねー”って。そんな事言ってた』


『でもそれって、別に、、、』


『もちろん、たつやかどうかなんて分からへんよ。でもね、その日は、たつやが私の家に遊びに来る予定になってたんやけど、、、』


 百香さんは静かにコテを置いた。


『“ごめん、明日はやめとくわ”ってメッセージがあった。その電話のやり取りを聞いた少し後に』


 俺は言葉を失っていた。川本がもし浮気していたなら、俺は一体誰のために何を求めてこの場にいるんや。


『それだけじゃないねん。私との用事はことごとくキャンセルになったり、メッセージ全然見てくれへんかったり、、、。もう私に興味ないんかなって思うのも無理ないやろ?』


『それは研究が忙しいからやと思うで。研究室に寝泊まりとかしてるらしいし。何度も言うけど川本は浮気するような男じゃないよ。それは百香さんが一番分かってるやろ?』


 俺は心の底から川本を信頼していた。あいつが浮気なんてするはずない。


『そう信じたいけど。信じられない私自身も嫌になる。。。』


『百香さん、、、』


『あの、メンタル君。少しお願いしていい?私がこんなこと考えてるってのは絶対内緒にして欲しい。それでもし、たつやに何かおかしい事があったら教えてくれへん?コソコソとせこい事してるみたいで申し訳ないんやけど、、、』


          ○


 俺はなんであの時、『分かったよ』と言ってしまったのか!あぁ、俺は二重スパイで二枚舌のとんでもない男に成り下がってしまったぞ。。。


 川本になんて説明をすればいいのだろう?とりあえず、『明日学食で話そう』とだけメッセージを打っておいた。


 帰りの電車は存外空いていて、ゆったりと座席に座れたが、なんだか体がとても重い。思い返せば今日一日、俺は暗躍に暗躍を重ねては、伊賀甲賀の忍者にも引けを取らないくらいの忍びっぷりではなかったか。。。


 なんで恋愛をひとかじりもしていない俺がとあるカップルの間に挟まれて相談を受けているのか?そして、俺は結局何を信用すれば良いのか?頭の中が上手く整理できないまま時間が過ぎていくのは、この上ない恐怖である。


『んがぁぁぁあ。んがぁぁぁあ。んごっ』


 恐怖でいうなら、横に座っているこのオヤジ。大きなをかきながら、気持ちよさそうな顔をしている。『極楽浄土は何処〜?』と、たまに出る寝言が哀愁を漂わせており、社会の荒波に揉まれているのであろうこのオヤジに同情する者もいるかもしれない。ただ、車内の誰もがチラチラと目を向けてくるので、横にいる俺まで罪悪感と羞恥心を抱かなければならなかった。


 しかもこのオヤジが手にしているスマホ。シェフのような格好をした赤ちゃんが延々と料理をしている動画ばかり流れている。最初に気づいてから、もうかれこれ二駅は通過していると思う。


 赤ちゃん去ってまた赤ちゃん。

 ずっと似たような動画が流れているものだから、俺はこの赤ちゃんのつぶらな瞳に、ついうっとりとしてしまっていた。


 だからこそ俺は、、、。

 そう、俺は自分に向けられている鋭い視線に全く気が付かなかったのである。あいつはいつから俺のことを見ていたのだろう?


 初めてその男の存在に気がついたのは伊丹駅に到着した頃である。


 ドアの開く音でぱちっと目が開いたオヤジは慌てて電車を降りていった。『あぁ〜、俺の赤ちゃんが〜』と名残を惜しむ暇もなく、陽気な赤ちゃんシェフも俺の目の前から姿を消していった。


 そんな俺の悲哀に満ちた顔が映る、真正面の窓をぼんやりと眺めていた時だった。


 斜め前の座席に黒のキャップを深く被った男が、俺をじっと睨むように見つめているのだ。歳は同じくらいで、大学生だろうか?ずっとスマホを触っているが、その目は確実に俺を捉えていた。


 目が合った瞬間に彼は素早く目線を逸らしたが、なぜかその後も隙あらば監視するように睨んでくる。


 怖いよ〜。俺が何したって言うねん!横にいたオヤジのスマホ見てたから?それがあかんかった?たしかに横の人のスマホを覗き込むのは、決して良くはない。俺も軽率やったかなと反省しとるから、そんなに見つめんといて、、、。


 男の白いTシャツには砂漠の絵が大きくプリントされていた。そして英語で『タクラマカン砂漠』の文字。なんなんだこの男は?


 俺はこの男を『タクラマカン男』と命名した。


 無言の攻防。俺が定期的に視線を向けて牽制をかけなければ、彼は俺を舐め回すように睨み続けるだろう。もうやめて、、、。


 とうとう彼は宝塚駅で電車を降りた。最後の最後に窓の外から、俺を一瞥していきながら。全くしつこい男やのぉ。Tシャツの背面にもタクラマカン砂漠あるやんけ。。。


 この時俺は、タクラマカン男について後にじっくり記述しなければいけなくなるなんて思いもしなかったのである、、、。


          ○


 まぁそんな男のことはさておき、百香さんと川本の事に、俺はなお一層頭を悩ませた。


『昨日はありがとう。百香はどんな感じやった?』


『いや、まぁまだ分からん事ばっかりやな。』


 早速、俺は真相を濁す。


『収穫はあったよ。ケイスケって奴、恐らく百香さんの学科の後輩なんかもしれん。それに昨日、百香さんと会う前に“こいつがケイスケか?”と思しき男とも出会ってる。そいつには彼女らしき女の子がおってやな、、、』


 俺は『纏めるのがどんだけ下手やねん』というくらいに、昨日あった出来事を思いつくまま述べた。もっと分かりやすいようにパワーポイントでレジュメを作ってこれば良かったな。


 だがもちろん、百香さんとの約束は守ったまま。当然川本が浮気しているのかどうかなんて聞くことはできない。あぁ、全くもどかしいことこの上ない!


『そうなんや、、、。百香、ほんまにケイスケって男と会ってるんかな?』


『とりあえずは、ケイスケを調査しようと思う。数学科の三回生って事やから、今日の4限目に必修があったはずや。』


『なんでそんなん知ってんの?』


 俺はカバンから秘伝の書を取り出すような仕草で、シラバスを出して見せた。


『まさかこんな所でも役に立つなんてなぁ』

 

 この通り、シラバスは全学生必携のマストアイテムなのである。。。


          ○


 さて、この世界には数え切れないほど沢山の人間がいる。そしてそれぞれが織りなす物語に満ちている。当たり前のことなのに、何かに夢中になっていると周りが全然見えなくなってしまう。


 このように俺が一組のカップルの一大事件をめぐり、奔走している裏で、ある怪しい二人の影が動き出していたのである。


『おい、これ!ちょっと聞いてみ!』


『なんや、なんや?』


『いいから、聞いてみろって!』


『、、、。おい、これって』


『ああ。この大学にもおったんや』


『こいつを探すぞ。絶対に見つけたる』


 この荒れに荒れた四回生。まだまだ前期の半ばだが、良いか悪いか、様々な色彩を帯びはじめていたのであった。。。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る