8.さらなる深みへ
やっぱり百香さんは浮気なんてしてないんじゃないか?
俺は電車に揺られながら、隣に立つ彼女の横顔を見てそう思った。
『あっ、見て。生駒山が綺麗、、、。』
夕陽に赤く染められた生駒山は、その堂々たる佇まいと共に、どこか切ない感情を彷彿とさせる。この景色を見ながら、何度も儚い思いに胸を締め付けられた。
『今日はどうする?いつものイギリスコーヒーに行くの?』
静かな微笑みを外の景色に向けながら、百香さんが聞いてきた。
『いや、今日はガッツリ食べたいかな。お好み焼きとかどう?』
『いいねー。お好み焼きにしよ!』
一瞬、『レポートの相談なのにお好み焼きって、鉄板あるからやりづらそう。おかしいかな?』という考えがよぎったが、気持ちの良い清々しい返事に、どうでもよくなった。
俺はつり革をぐっと握って体の向きを変え反対側の窓の景色を見た。空には雲ひとつなく、真っ赤な太陽が眩しい。そして大阪の広々とした街に、シンボルのように構える“あべのハルカス”。そういえば、あべのハルカスの展望台に行ったことがない。一度行ってみたいな、、、。
『この時間のあべのハルカスって、どこか懐かしい感じがするんやけど何でやろ?私いっつも学校からの帰りに、これ見てノスタルジックな気持ちになってる。地元じゃないし、そもそもあべのハルカス自体が新しいのにね。』
その繊細な感覚こそ、彼女を象徴しているように思う。些細な事で人の心がどう動くか知っている。だからこそ自分が浮気すれば川本がどう感じるか、容易に想像できるはずだ。それとこれとは話が別なのかもしれないが、、、。
遠くを見つめる百香さんの瞳は、静謐さを湛えている。今から彼女を詮索しようとしている俺が、無法者のように思えてくる。しかし、川本のためにもここで引き下がるわけにはいかないのだ。でもやっぱり、、、。
百香さんと目が合う度に、そんな事を右往左往して考えていると、電車が鶴橋駅に到着していた。あっという間だった。
○
鶴橋駅における、近鉄線とJR環状線の乗り換え。通勤帰宅時間は人でごった返し、なかなかスムーズに動けない事がある。
そんな中、俺はこの長き大学生活で得たスキルで一番誇れるものは何か?と問われたら迷わず『鶴橋駅の乗り換えマスター』と答えるだろう。
『お好み焼き、どっか目星つけてんの?』
そう言いながら百香さんは進行方向、向かって左側を歩く。
俺はそれを見て、まだまだだね百香さん!と偉そうに言った。
この鶴橋駅、東西に延びる近鉄線と、南北に延びるJR環状線が交差しており、下側が近鉄、上側が環状線という形で駅が成り立つ。俺はこの駅を走る事なく安全に、誰よりも早く移動する方法を編み出したのだ。
今回は奈良方面から近鉄で到着し、環状線内回りで大阪駅へ向かう場合の攻略法を紹介する。
まず電車を降りる前、そもそもこのスタートで決まってしまうという説もあるのだが、先頭車両の一番前のドアで待ち構えるのがベストである。理由は単純明快で、“距離が近くなるから”に過ぎないが、、、。この日も俺は百香さんに悟られることなく、さりげなく最適なポジションをマークしていた。このように準備万端で待ち構えていると、駅到着の車内アナウンスが、ファンファーレに感じてくるはずだ。
そして電車が到着しゲートが開いたら、環状線ホームがある上の階へ行かなければならない。向かって左手にはエスカレーター、右手には階段。ちなみに階段は幅が10メートルくらいはあるかと思われる。(実際に測ったわけでは無い)
そこで先程、百香さんが左のエスカレーターを目指したことを思い出して欲しい。彼女同様、ほとんどの人がエスカレーターを選択する。それは勿論階段に比べて楽だからだろう。階段を使う少数派も、多くはエスカレーターが混んでいるという理由で仕方なく使用しているだけだと思う。
ただ、エスカレーターではかなりの遅れを取ってしまうだけでなく、上の階の改札は向かって右側にあるので、その分距離も長くなってしまう。そうなれば環状線に乗り遅れてしまったり、ギリギリ乗れたとしても開閉するドアの横のスペースしか確保できなかったり、、、。
毎日電車を使う人からすれば、これは相当なストレスとなるのだ。
そこで俺は、電車を降りた地点をA、階段の最上段の右端をBとした時、直線ABに沿って歩いていく。つまり、左手前から右奥へと斜めに歩いていくという事だ。そして、階段も斜めに上る。(これは危険だから、対向者がいる時はやめておきましょう。)
これこそが鶴橋駅の最短コースであり、完全なる攻略法なのである。
『百香さん、こっちこっち!』
『え、、、?』
俺は戸惑う百香さんに構わず、階段を上っていく。この日もトップで最上段B地点に到達した。そして最終コーナーで振り返ると百香さんも慣れない足取りで、しっかりとついてきてくれている。
そして恍惚とした表情で、こう言った。
『めっちゃ早いね!一番乗りやん。』
なんだろう、この快感。。。
この方法はデートでも使えるので、ぜひ恋愛攻略本にも掲載していただきたい。(安全は必ず確保しましょう。走ったり、他人の邪魔をしたりするような人は“乗り換え競争”に参加する資格はありません!)
○
なんとか無事乗り換えることができ、早々と大阪駅に到着した百香さんと俺であったが、他愛もない会話を続けていると、なかなかケイスケについて踏み込みづらくなってくる。
『ここでいい?』
よくあるお好み焼きチェーン店で、味には文句なし。目の前の鉄板で焼いてくれるのでよだれが垂れるような美しい香りを全身で浴びる事ができる。家に帰った後、服が臭くなっている事に後悔しようが関係ない!!とは俺の意見で、百香さんは嫌がるかな?と聞いてみたが、全然気にしないとのことだった。
席に着くと、百香さんが肩にかかる髪を束ねながら、『最近はどう?』と明るい声で聞いてきた。
『いやぁ。やっぱり大学は大変やな。まだまだ大学地獄に嵌ったままやけど、研究室の実験は後期からやし、着実に授業出て、単位を回収してるところやね。』
『回収って表現が、なんかリアルやな。』
『しゃあないよ。取りこぼした単位達なんやからさ。なんたって、俺が嫌になって逃げても、彼らはシラバスの中でずっと俺を待ってくれてたんやから。感謝、感謝。』
『なんや、それ』と百香さんは笑いながら、スマホをテーブルに置いた。
注文した豚玉とモダン焼きが、ゆっくりと完成に近づいていく。それに従い、俺の緊張感も増していく。ちゃんと聞き出せるだろうか?どうすれば真実に辿り着く?モダン焼きからはみ出した麺がパリパリになるまでじっくり考えよう、、、。
『あのさ、、、』
百香さんがゆっくりと口を開いた。しかしタイミング悪く、俺はピッチャーを交換してもらうために店員を呼んでしまった。
『あれ?さっきなんか言いかけた?』
『ううん、大丈夫。』
何か心の底に溜まっているものがあるような表情。俺は自分の失敗を恥じた。せっかく打ち明けてくれようとしていたのに!
その時、彼女のスマホがブルっと震えて画面が光った。
少し慌てたような素振りでスマホを手にした彼女は、内容を確認すると、小さなため息と共に顔が曇った。
『川本から?』
あまり深く入り込むのは良くないと思いつつも、直感的にケイスケからではないかと思ったので、無礼にもそのメッセージについて触れてみた。
『ううん。土曜日に友達と約束してたんやけど、ダメになっちゃったって。。。』
やはり全てが繋がっている。これは間違いなくケイスケだ。『土曜日にモモちゃんと』用事があるとミホが言っていた。俺は今、とてつもない速さで真相に近づいている。
『なんの友達??』
焦りすぎるな、俺よ!
こんな質問、彼氏でも鬱陶しがられるのに一体俺は何者のつもりやねん!
頭では分かっているが、目の前に人参をぶら下げられた馬のように、目一杯走ってしまう。
『同じ学科の後輩やねんけど、色々相談乗ってもらってて。』
『そうなんや。』
それって男なん?とまではさすがに聞けなかった。俺もそこまで馬鹿ではない。
それから『自然薯栽培の革命』のレポートについての話をした。もちろん俺にとって、このレポートに関しては死活問題なので、エリートの集まるセミナーのように逐一メモを取った。百香さんの一挙手一投足を見逃さないように、、、。
『要はクレバーパイプがいかに、革命的であったかを表現するのが大切やねん。先生のビデオ見たと思うけど、あの内容にプラスアルファせなあかんよ、色々調べた事。』
百香さんはとても頭がいい。分かりやすい説明をたくさんしてくれた。
『ふぅ〜。食べた食べた!!』
鉄板がピカピカと綺麗になるまで、お好み焼きを食べ尽くした頃、『さぁ、今日のところは多くの収穫があった。次は百香さんの学科の後輩にケイスケがいるかどうかやな!また別の日にそっち方面から探るか。』と、今日はもうこれ以上何もしないと決めた。
しかし百香さんの発言で、物事は思わぬ方向へと動き始めたのである。
『私がこんな事言ってたっていうのを“たつや”には絶対言わんとって欲しいんやけど。』
前にも述べたが、たつやとは川本の名前である。
『たつや、、、私の事、もう好きじゃないんちゃうかなって。』
『え、、、?なんで?』
『私、、、。自分が信じられへん。なんでこんなに彼の事を、、、。』
『ちょっと、待って。落ち着こう!』
このカップルは一体なんやねん!なんかどっちも情緒不安定やぞ、、、。
『たつやが、、、、、、』
『たつやが??』
『浮気してるかもしれない、、、。』
また浮気!!なんやねんこれ!!
俺は心の中で『もうやめてくれぇぇ』と叫びながら、さらなる深みへと足を踏み入れたのであった。。。
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