3.先を行く者
俺はついさっきまでの、威厳に満ちた態度を恥じた。まるで夜に一番輝いていた月が、昇る太陽を見て白んでいくように。
東“さん”はまさに、この大学に潜む見えざる引力(大学地獄)の一番の被害者であった。しかし学生生活に迷える人達、とりわけ留年してしまった流浪者達にとっては、彼こそがこの不毛なコースの先頭を走るペースメーカーであり、誰もがその後を走っているのだ。
『びっくりした?』
『いえ…………』
しまった……。俺はさっき一回生がした反応と同じように敬語を使ってしまった。自分も同じような立場でその辛さを知っているのに、やはり遠慮してしまう。
『まさか体育に先輩がおるとは思わんかったやろ』そう言いながら東さんは笑って立ち上がった。俺は何とも曖昧な苦笑いを浮かべ言葉にならないような音を漏らしただけだった。
『ちょっと落ち着いたわ。一緒にちょっと歩かへん?』
ゆっくりとジョギングコースへ戻っていく東さんの背中に“苦労”の二文字が刻まれていた。これは決して俺の想像ではない。なんちゅうTシャツ着てんねん、と思った。
『メンタル君は四回生って言ったよな?何回予定?』
『一応今のところ五回です』
このやりとり。俺は特に違和感なく答えてしまったが、普通の学生では考えられない会話だ。だっておかしいだろう、一般的には予定もクソもない、四回生で卒業に決まっている。何回予定ってなんやねん!と、なるのが優良生徒の回答だ。
だが、なぜ東さんは俺が留年すると分かったのだろうか。ギリギリ四回生だったら現役卒業の可能性も考えられるような気がする。そう思った人もいるかもしれない……。
そこはやはり東さんが勘のいい男だったという事だろう。四回生で体育を再履修してる人間はきっと留年しているだろうと、経験からくる統計的考察によって俺がダブっている事を見抜いたのだ。
『なかなか体育は簡単なように見えて難しいですよね。欠席が命取りなんで』
『そうやな。俺はこれは無理やと思って、最後まで残しとってん。最後って言ってもその時は四回生のつもりやったんやで。いつやいつやとシラバス相手にパズルみたいに悩んどったら、結局八回生にまで持ち越しになってしもたけど』
うぅぅ……。笑うに笑えん……。
やはり俺たち留年組は、毎年希望に満ちた目でシラバスを開き、そして解けないパズルに絶句し、必要な授業を後回しにする傾向があるようだ。
『まぁラストイヤーで、ちゃんと卒業できる目処は立ってる。同級生は疎か、後輩さえも社会に飛び立ってしもた今、みんなの後ろ姿しか見えへんけど俺もとうとう歩み始めるんやなと感慨深くなってきてんねん。人よりいっぱい授業受けてきたんやから、その底力を見せる時が来た』
うーん。ちょっとよく分からないが、深い事を言うなぁ。やっぱり経験が違う……。
『これだけ留年したのは許し難い失敗や。もうこの大学には、本来俺が関わることの無かった学生しかおらん。でも、後悔はしてない。いや、後悔してそのまま終わってしまったら、そっちの方が失敗やと思ってる』
すごく力強い言葉だ……。
『何も得られんかった?損ばっかりした?道外れてしまった?そんな考えが、頭ん中いっぱいよぎったこともある。そんな事気にしたらあかんで。偉そうに言うけど、もう後悔できるところにいないんよ、俺達留年組は』
八回生という、見る者の網膜さえも支配するようなオーラに、己の精神が洗脳されてしまったのかもしれないが、今の俺にとっては学ぶべきものが沢山あるように感じたのだ。
『あの……。今年卒業されるって事は、就活とかって……』聞いていいものなのか、恐る恐る尋ねてみた。
『あぁ、なんとか決まったで』
『それは良かった!おめでとうございます』
本当にほっとした。東さんに対しても、未来の自分に対しても。就活支援室のカウンセリングに引けを取らない説得力。データではない生の声の力を感じた。
『留年っていう肩書きがあるのはなかなか難しかったけど、大丈夫!これからの自分を見せるんや。その誠意を!それが社会に出てからも大切なんとちゃうかな?それは俺も全然知らんけど』
『先輩っ!俺も頑張ります!』
まさか四回生になって、学内で“先輩”と言えるなんて!俺はその喜びを噛み締めながら東さんとジョギングコースを歩き続けた。そう、残りの時間は決して走る事はなかった。いや、もう走れなかったというのが正しい。
大学一回生に声を大にして言いたい。この四年間の過ごし方で、ものすごく体が変わっちゃうよと。ダラダラしていると、ものすごく疲れを感じちゃうよと。
ピーーッッ、と大きな笛の音とともに『はいー!終わりまーす、集まってー!』という山中先生の声。
まだまだあどけない姿の一回生達がきゃぴきゃぴ笑いながら先生の元へ走っていく。俺も一回生だったら、『山中せんせーい!』と笑顔で手を振り、走り寄ったかもしれない。
一回生の後をゆっくりと、足取りの重い四回生と八回生がゆく。もう我々はあの無邪気な世界と決別したのだ、と東さんが呟いた時、俺もついに心の底で覚悟が芽生えた気がしたのだった。
○
あれからというもの、東さんとは毎週体育で一緒になった。そして体育終わりの昼食も一緒に取るようになり、“大学生とは何ぞや” という、八年目になっても解けない、いや八年も通ってるからこそ複雑になってしまった問いに関して、彼の推論(もしくは説法)を聞かせてくれた。
『俺らは大学に何を求めてる?』
『知識?人間関係?……ですか?』
『それは現役卒業する彼らの話や。俺ら留年組は?留年してもなお卒業を目指す。その根幹にあるのは?』
言葉が出ない。俺は何を求めているのだろう?なんのために通っているのだろう?
『留年って奥が深いねん。決して良いとは思えへんけど、なってしまった以上は何か手にするはずや。俺らにしか分からん答えを』
『先輩はもうそれを…………』
ゆっくりと首を横に振る東さん。『あと半年しかないのに』と感極まったのか、ポロポロと大粒の涙を流し始めた。
両目から溢れ出た涙は、筋の通った立派な鼻で合流し、鼻先からカレーの福神漬けめがけて落ちていく。ものの見事に福神漬けだけを濡らす涙。俺はそれを凝視する。福神漬けよ。その涙を『答え』に昇華してくれ、と願いを込めて……。
○
そんな華々しい(?)四回生をスタートさせた俺だったが、同級生達は残り一年を切り、卒業論文のために研究室に詰め込まれていた。
その各研究室の前には、果たして同じ大学の同じ学科の生徒が書いたものなのか?、と思えるほど、訳の分からない記号と式が乱立したレジュメ。
『俺は来年こんなの書けるのかね?』
まるで他人事のように、口をぽかんと開けてそのレジュメを眺めていると、スマホにメッセージが届いた。
『あ、川本からだ。』
川本のメッセージのおかげで、数式が笑顔で手招きしてくる理学のブラックホールからなんとか抜け出せる事ができた。
そういや研究で忙しい川本とは一ヶ月くらい会っていなかったな。そのメッセージを開くと………
『めっちゃヤバい。色々やばい。ホンマあかんわ。今日夕方梅田の地下いける?』
語彙力を完全に失った川本。
一体何があったというのか……?
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