2.猛者現る
体育。
一回生の時は、『大学にも体育ってあんねんや!』と、はしゃいでいたが、出席日数が足らず見事に落としてしまった。
多くの人は『体育なんてめんどくさ』と言いながら、なんだかんだで楽しんでいる。勉強や人間関係に忙しい学生にとっては、体も動かせる体育がちょうどいい息抜きになっていると思う。
ただ、知り合いのいない俺達“再履修組”にとっては、とてつもない試練と化す。
俺の通う大学は必須科目の体育で、いくつかの種目が用意されている。それは年度によって変わるのだが(前期後期合計五回出席した俺だからこそ身をもって知っている)、バスケ、テニス、卓球、フットサル等々……。
どれもこれもコミュニケーション能力必須の、グループ組まなければいけない系の種目やんけ!!!再履修組はこれがなんとも辛いのだ。
つまり、体育を落とすということは、翌年の自分の首を絞める行為に等しい。
そんな中、一際輝く種目が一つだけあったのだ。その名も…………
『ジョギング』
俺にはこれしかないと毎回思った。なぜならペアを組んだり、グループを作ったりする確率が一番低いからだ。迷う事なくジョギングの方へ駆け込む俺。群がる一回生を掻き分け、我先にとジョギングの講師の元へ。
『あれ、また来たん?メンタル君』
『走るの大好きなんで!』
『じゃあちゃんと単位取ってよー』
ジョギングの女性講師、山中先生は俺の事をいつも覚えてくれている。この大学で山中先生と最も長く一緒に走ったのは間違いなく俺だ。
あぁ俺は陸上部に引けを取らないくらい大学のランニングコースを知り尽くしている。なんで大学が嫌いなのに、こんなにも大学のあらゆる知識を蓄えていくのだろう?とても不思議な現象だ。
さて、俺はもう四回生で体育に関してはベテラン受講生になりつつあったのだが、悲しい出来事も勿論ある。
ある日、ストレッチでペアになった男子と喋っていた時の事。彼はとても温厚な印象で話しかけやすく、そのおかげでなんとか会話を続ける事ができたのだが、一回生によくある質問を受けた時、俺は色んな思いが交錯し涙を流しそうになるのだ。
『メンタル君ってさ、どこの学科なん?』
『物理学科やで』
『あっ。ほんじゃ、サークルの新歓で一緒になった人おるわ。中島って知ってる?』
『いや、知らんなぁ』もう辛い……。
『サークルとか入らへんの?』
『いや、あんまし興味ないっていうか……』
俺が悪いんだ。すまない、もうやめてくれ。俺の正体を知った時の君の顔が怖いんだ!
『へぇ、そうなんや。他に同じ学科で誰か知り合いおる?』
『あの、実はね……。俺四回生やねんな』
『えっ……。そうなんですね……』
敬語になる彼……。
華々しい大学生活のスタートを切った彼の目に、俺はどう映ったのか。できればこんな碌でもない底辺学生の姿など、夢ある彼の人生に登場しない方が良かったはずなのに。ごめんよ。そして俺を踏み台にして羽ばたいていけ!
それから彼とペアになる事も、話す事もなかった。
申し訳ない気持ちでいっぱいだ。彼はなんとなく俺に気を使っている。そんなこと考えなくてもいいのにと思うが、そりゃそうだよな。
一回生からしたら四回生なんてちょっと怖いよな。普通あんまり喋る機会もないし、いわゆる大人って感じするし。そしてそんな四回生が正体隠して体育にこっそり潜んでるってカオスだよな。
俺はとても辛く、悲しかった。全て俺が犯した罪によるものだ。俺の行動が作り上げた不条理な世界。意味なき留年は万死に値すると、誰かが言ったとか言わなかったとか……
ただ、俺が言えることは、『留年はするな』
と、ただその一言に尽きる。
『うおおぉぉぉっーー』
もう何も考えたくない!と、俺は誰よりも早く走る。先頭を走っていた先生さえも追い抜いて、果てしない夢の先を目指す。
『ちょっとー。メンタル君どうしたのー?』
先生!俺を止めないでくれ!と、背中で語るも、次第に足がもつれだし、遂には倒れてしまった。
『大丈夫!?』
俺はもう駄目だ。みんな、後は任せたぞ。
心の中で呟いたものの、結局俺は先生の手を借り、グラウンドの端にあるベンチに腰掛けた。
『無茶ばっかりするから、こんな事になるんだよ!』
『は〜い』と、泣きそうな掠れ声で答えた。少し落ち着いて、視野を広く周りの景色を見た。あぁ長閑な山、澄んだ空、飛びゆく雲と鳥……。
『豪快に転んでたなー。』
突然横から男の声がした。そっと暗闇から手が伸びてきたような不気味な気配がした。チラっと右を向くと、少し体格の良い男が黒のシャツに黒の半ズボン姿で、足を組んでベンチに座っていた。
あれ?さっきは誰もいなかったのにな。
『めっちゃ恥ずかしかったわ。君もジョギング?』
『そうやで。ちょっと疲れたから休んでるだけ』木の下で影になっているからか、男を纏う空気は不穏な色をしていた。
男の名前は、東だと言った。彼は本当に疲れているのだろう。首元には大粒の汗が見える。
『走ると気持ち良いけどさ、なんで自分がこんなに走ってるんやろか?とも思う。ペースは自分で決められるけど、焦って急ぎすぎたり逆にゆったりのんびりしすぎたり、なかなか自分の思い通りにはいかんよな。ほんで息切れてしんどいわ。終いには自分がどこに向かってんのか分からんくなる。それってつまり人生そのものやんな』
何をベラベラと訳の分からん事をぬかしとんねん!すました顔が、いかにも悟ってますという雰囲気。うんうんと頷いているのも少々気に障る。まだ一回生やろ?この大学の中でもまだまだいろんな気づきがあるって。
完成したようなフリをするなって。
俺は普段でしゃばるタイプでは無いが、この時ばかりは臆病な自分を踏んづけて、東とやらに対抗した。
『俺らは人生を語るのにはまだまだ未熟者やで。自分の中で当たり前やった事が、あれよあれよとあっけなく変わっていく。つまり視野が狭いって事。たくさん色の違う世界があって、そのどれもが誰かにとっての当たり前なんや。同じ世界でも感じ方は異なるのに、そんなに別の世界があるんやったらもっと人生感は枝分かれしてるんとちゃうかな。俺もなんも知らんけどさ』
あれ?俺もだいぶ偉そうな事言っちゃってんなとは思ったが、まぁいいや。どうや?反論あるか?
『すごいな君、面白いわ。何学科?』
『物理やで』
『へぇ。なんでそんな捉え方できるん?』
俺はもうすでに、人生のランナーズハイになっていた。なんでも打ち明けてしまおう。
『何を隠そう。俺は新入生の生態を調査するために潜入してる研究員。その名もザ四回生なのだ!』
『…………』
だだ滑り……。
いや、きっと違う!違うのだ!いきなり見せつけられた、『最上級生』と書かれた印籠にビビっているのだ。ふっふっふ。これにて一件落着…………
『そうなんや。でも俺八回生やで』
え???なんですと???
俺はこの時ほど青ざめた事はなかっただろう。
下級生しかいないと思っていた体育で、この大学の猛者に出会ったのだった……。
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