4.イギリスコーヒー
梅田の地下にある喫茶店。お洒落な看板や飾りのない、普通の喫茶店。ただ、絨毯が心地よく椅子もふかふかで、店の外が一切気にならないような作りになっている。
川本と俺はそんな雰囲気を気に入り、梅田に行ったら絶対ここ!難波にいても天王寺にいても絶対ここ!例え電車で移動してでも!というくらいに陶酔していた。
名前は『イギリスコーヒー店』
俺は授業が終わって午後四時には梅田に着いていた。少し買い物を済ませた後、一人先にイギリスコーヒーへと向かう。
『いらっしゃいませ。おひとり様ですか?』
『いえ、あとでもう一人来ます』
『承知いたしました。お席にご案内いたします』
相変わらず店内は落ち着いていた。他の客の声は決して小さい訳ではないのだが、不思議と気にならない。
俺はスマホを取り出し、川本のトーク画面を開く。
『めっちゃヤバい。色々やばい。ホンマあかんわ。今日夕方梅田の地下いける?』
カタカナと平仮名を使った、やばいの場合分け。でもどっちも“い”は平仮名なんだな、とどうでもいい事を考えた。
川本、一体どうしたっていうんだよ。こんなに取り乱したお前は見た事ないぞ……。
いつも冷静沈着で、誰よりも視野が広く、人情に厚い。このどうしようもない俺を何度も救ってくれた。そんなあいつが……。
俺にできる事があれば、何でもやりたい。少しでも彼の力になりたい!
彼は研究室での実験を終えてから来るはずだから、午後六時はまわるだろう。どうしたんだ?と俺が一人焦っても意味がない。それまでシラバスを広げて、後期授業の受講計画でも立てておこう。
○
ここで突然だが、『シラバスの落とし穴』というものを知っているだろうか?
びっしりと授業名が羅列されたシラバス。俺の大学では、どの学科の生徒も受講可能な“一般教養”と各学科用である“専門授業”の計二種類、授業が用意されている。
当然の事ではあるが、必修の専門授業があれば、その同じ時間に開講している裏授業は受ける事ができない。ただ必修の中にも、選択必修というものがあって、細かい話は置いておくが、一般教養と選択必修のどちらを受講するのか、上手く考えていく事が、シラバスの覇者へと近づく第一歩であり、大学生活を充実させるコツと言える。
だがここに一つ、『シラバスの落とし穴』が存在する。それは実施教室の“定員数”である。
授業名の右端に、ひょっこりと隠れるかのように佇んでいる英数字。()に囲まれて安心しきっている英数字!こいつが意味するのは、授業を実施する教室の名前である。
例えば(A-1 101)という英数字は、A-1棟の101教室にて授業が行われますよ、という事を意味している。学生達が初回授業の時にどこへ行けばいいか判別するためのものだ。
しかし、この英数字だけではまったくもって不十分なのである!一番肝心なのは“授業の定員数”!この一言に尽きる!
まず授業を選んだ後に必要なのは、自分で該当する授業の実施教室を確認して、この教室の定員は……、と逐一照らし合わす作業である。
なぜ俺がこれほどまでに口酸っぱく、定員数の重要性を語るのか。
定員数の把握が、大学に生きる学生達にとってどれほど大事であるか、俺は声が枯れてでも伝えたい!散り散りになった俺の身ぐるみを見よ!このようになりたくなければ、定員数をチェックしなさい!
俺はこの大学生活で嫌というほど味わったのだ。シラバスの落とし穴に嵌った絶望感を。そしてその暗がりから聞こえる敗北者達の嘆きを……。
では、あれこれ言わずに解説していこう。
1.定員数を超えると一体どうなるのか?
一般教養の中でも簡単で取りやすいと噂の授業は人気が高いため、初回授業には廊下に溢れるほどの生徒が押し寄せることもある。そうなるとその授業を受講するための抽選が行われることになる。俺のような後がない系の大学生は、なるべくリスクを取りたくないので、実施教室の定員数を事前にチェックしておき、抽選の可能性が高い授業は避ける必要がある。
2.受講できると見込んでいたものが定員オーバーで抽選となり、万が一落選してしまったらどうなるか?
本来難なく受ける事ができたであろう裏授業(選択必修等)の初回授業にも参加できなかった事になる。この初回授業を逃したら二回目からの参加ができない事がある。つまりその時間の、どの授業への参加も困難な状態に陥ってしまうのだ。
そして、元々作成していた受講計画は破綻し、穴ぼこの時間割になってしまう。俺は二回生の時、相手をよく知らぬ未熟者だったゆえに、何度もこの『シラバスの落とし穴』に嵌ってしまった。
食堂へ向かう渡り廊下の掲示板に貼られた一枚の紙。そこには薄情な教授による、無作為で行われたのか疑わしい抽選結果がある。俺は今まで、この掲示板に何度となく涙を見せてきた。透明のアクリル板にぼんやり映る情けない男。これが自分の顔だと気づいた時己の運の無さを嘆いた。
『あぁぁ……。うっ、うぅぅ……。』
そのままそこにいると、俺は崩れ落ちてしまいそうだった。慌てて下を向きながら、誰にも悟られないように、上半身を斜め45°くらい前方にして早歩きをした。いち早く逃げ出したかったのだ……。
○
『遅れてごめんな。』
俺はその声で、憂鬱渦巻く大学の世界からイギリスコーヒーへと引き戻された。
Oops!また、大学のことになると夢中になるあまり、話が逸れてしまっていた……。
『結構待たせてしまったな、もう19時や』
『いいや、大丈夫やで。シラバスの事考えとったら、一瞬や』
『シラバスってなんの話なん?』と、笑いながら川本が席につく。彼はいつものミックスジュースを頼み、小腹がすいたとサンドウィッチも注文した。
さしてこの場で重要ではないシラバスの話は横に置き、単刀直入にメッセージの内容の意味を聞いた。
『どうしたん急に、何があったん?』
目線を少し泳がせて、明らかに動揺する川本。彼は何を考えているのだろう?何かを口に出そうとして、その度に躊躇しているような印象だ。
『言いづらい事があるんやったら、無理しなくて大丈夫やから。何か俺でも力になれる事あったら、言ってくれ』
悩みというのはなかなか人に伝えづらい。俺もその苦しさは知っているから、無理に聞き出す事はしたくなかった。ただ、こうやって一緒に向かい合うだけでも、彼にとって何かプラスになれればと祈った。
『実はさ……百香がさ……』
“百香”というのは川本の彼女である。あれは二回生の終わり頃、戸惑った表情でありながら、どこか嬉しさも滲んでいるような川本が、百香さんと付き合い始めた事を俺に打ち明けた。
百香さんは、川本と俺が涙を交えて結んだチェリーボーイ同盟を解消へと追い込んだ張本人であるが、それでも俺は川本に彼女ができた事を自分の事のように嬉しく思った。俺まで幸せな気分だった。懐かしいなぁ。
『百香が……。』川本の目が俺の目を捉えた。
『百香さんが?』
『浮気してる………』
『………………』
俺は頭の中が真っ白になった。
あの百香さんが?川本の事をあれだけ愛していた百香さんが?
“うわき”という文字が理解できぬまま、ふわふわと俺の頭を締め付けてくる。
俺は少しの間、何も言葉が出なかった。いや、散らかる頭の中で言葉を探していたという方が正しいかもしれない。
シラバスがなんたるかを考えていた俺とはまるで温度感の違う悩み。そして恋愛の片鱗をも知らない俺に、何かできるのだろうか?
これは、暗い川本と、未だに浮気したとは信じ難い百香さんをめぐる、四回生の乱の始まりだった………。
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