第371話 ガレット・ブルトンヌ(前編)

 夏休みも気づけばあっという間に終わりかけ。

連日の猛暑に連日の勉強。

受験生にはあまり天気は関係ないかもしれない。

だって冷房が効いた部屋に引き籠っていたから。

けれど振り返れば色々あったかも。

お泊りの海に、男子やカジさん達と姉さんに会いに行ったり、毎年恒例の母の田舎のお爺様にも顔を見せれた。

半日だけれどミッコちゃんとも遊んだし、電話もしもしで男子と夜遅くまで話しながらやっぱり勉強をしたり──去年の私とは大違い。

スケジュール帳にいっぱいの文字で、私の中までいっぱいになったよう。


 けれど今日は、一人の気分。


 学校から隣の隣の隣町。

じぐざぐの細い裏路地。

少しだけお洒落な服とかかとの高い靴。

がらん、と鳴る古く錆びたドアベルの音。

小さく、立ち話をするかのような二脚しかない小さなカウンターの中から背が、すらっ、と高い白髪交じりの髪のマスターが、いらっしゃい、と出迎えてくれる。


 ここは私の隠れ家のような、お気に入りの喫茶店。


 何人の人が座った、薄く沈んだ形を保った一人掛けのソファーと楕円形のテーブル。

禁煙ではないお店は苦い煙のような、苦い珈琲のような、燻ぶった茶色の店内に色を香っている。

その端の、角の席が私のお気に入り。

格子の窓は夏休みの外を映している。

黄色に青色と白色の転機に、灰色の建物と差し色の緑が息をしている。

隠れ家に相応しく、数分前に一人、早歩きの女性がフレームインしてアウトしただけ。

お店も私がひとり占め。


 二層に色分けしたアイスカフェオレをストローでゆっくり回して、煙みたいに混ざっていくのを見るのが好き。

このお店のアイスカフェオレには、ガムシロップを半分入れるのが私が見つけた美味しいの一つだけれど、今日は無しで。

お目当ては、これ。


「──いい匂い」


「でしょう?」


 マスターさんは私の事を覚えていて、もちろん私も覚えているのでちょっとしたお喋りが開始された。

対面のソファーにどうぞ、と一秒足らずの目線だけの合図に気づいたマスターさんは、すぐに座った。


「女性の誘いは断らないよぉ」


 テーブルに、私の前に、二人の間に、ガレット・ブルトンヌがある。

丸く、表面にある格子模様は窓の影を映したかのよう。


「久しぶりだね、お嬢さん」


 腕を組むようにテーブルに肘をつくマスターはにこやかに微笑む。

真っ直ぐな目の横に現れる、くちゃ、と出来た皺に目が呼ばれた。


 きっとこの人、幾人もの女の人を夢中にさせてるんだわ……。


 私の勘はさて置き、おしぼりで手を拭きながら答える。


「覚えてくださってて光栄です」


「ふふっ、いい匂いだね」


 ふわ、と強いバターと焼き立てのあたたかい匂い。


「ええ、とても──」


「──例えるならどんなだい?」


 例えるなら?


 二枚重なるように盛られたお菓子を見つめて、隣にあるアイスカフェオレの氷が小さく揺れるのも見つめる。


「……罪、でしょうか」


 答えを聞いたマスターさんは、へぇ、と口をにんまり、と形を変えた。

このお菓子は初めてではなくて、最初に食べた時に私はそう思っていた。

もう我慢出来ない、と手掴みでひと口──ほら、やっぱり。

ざくっ、と噛んだ時の音と、崩れてしまいそうな、ほろっ、とした口当たりはすぐに唇を離せない。

バターの甘さと塩のしょっぱさが私を塞いだままで、落ち着いた頃に離れてはもう二口目を望んでいる。

けれどマスターさんがずっと、にこにこ、私を見ているので気恥ずかしくなった私は唇についた欠片を指で拭って、アイスカフェオレを飲んだ。

甘苦さがまた合う。


「お嬢さんが初めてここに来た時、本を読んでいたね。珈琲をおかわりした」


 確か、そう。

今日のように一人で、ずっと読みたかった分厚い小説を読んでいた。


「他の客や僕が見ているのも気づかずにね」


 それは違う世界にいたからだと思う。


「半分陽が射した中で君は少し俯いていてね……下唇に指を添えて頬に一筋、涙を流した」


 静かに笑うマスターさんは頬杖をつく。


「なんて事ない数秒だ。まばたきを二回する間もなく、僕は見惚みとれたんだ──君は美しい」


 全身の毛が、ぱっ、と跳ねたように感じた。

お婆様に近い年の人に褒められるのとは違う何かは、気のせいじゃないと思う。

だって頬が、熱い。


「ふふふっ、僕もまだ衰えてないようだ」


 悪戯か、我に返った私は持ったままだったグラスを置く。


「……お礼を言うべきですか?」


「いやいや。似ている、という話だよ」


 するとドアベルが鳴った。

ひとり占めはここで終わり。

マスターさんも気づいて手を挙げた。

どうやら常連のお客様のようだ。


 私はこの香りを罪と表した。

味を知ってしまえば、もう、それだ。


 意味が分かって、私は耳まで熱くなった。


「おや、刺激が強過ぎたかな?」


 お爺さんのくせに子供のように笑うマスターさんが憎めないのは、このガレット・ブルトンヌのせい。


「お嬢さんを虜にした青年に妬けちゃうよ」


 そう言ってマスターさんは外国人ばりのウインクを落として、席を立った。

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