第366話 はちみつ水(後編)

 近くて、影が濃い。


 ずるい、両手が塞がれてる。


 唇も口も、気持ちいい。


 熱くて、はちみつのせいで少し甘い。


 上手く出来ない息づきが、小さな声になって漏れた。


 男子がかけている眼鏡が、微かに頬に触れた。


 足を動かすと、一緒にベッドが揺れた。


 男子の向こうにある丸い、月みたいな電気がひどく眩しかった。


 口が離れて、顔がすぐそばにあった。


 動けなかった。


 緩く、手がほどかれた。


 私を潰さないように、男子が手を支えて見ていた。


 私は、行き場のない手を胸の前に置いた。


 心臓が馬鹿みたいになっているのに、やっと気づいた。


 気づいた時、今更とても恥ずかしくなった。


 何回か瞬きをしたら、男子の口元が笑った。


 控えめな、声のない笑いだった。


 また、キスされた。


 ついばむみたいに、口とか頬とかおでことか。


 嵐のようなそれはくすぐったくて、だんだん恥ずかしくなって男子の胸を少し押した。


 その時、気づいたの。


 心臓が、私と一緒だって。


 凄く煩くて、強かったの。


 男子の胸に手を当てたまま、また目が合った。


 ──愛してるって、聞こえたの。


「……びっくりした?」


 普通に、いつも通りみたいに聞かれた。


「……うん」


 だから私もいつも通りみたいに──いかなかった。


 まだ私達の形は変わらない。


 私は倒されたままの仰向けで、男子は被さるように私に影を落としている。


 たまらなくて、逃げたいと思った。


 体をよじって横向きになって、上に動いた。


 そしていたら、男子が私の腕を引っ張ったの。


 二度目のびっくりだった。


 だって、簡単に私を起こして座らせたから。


 ベッドの真ん中らへんで、二人して座った。


 ワンピースの裾から足がいっぱい見えたから、急いで隠した。


 気づいた男子もそっぽを向いた。


 それでも腕は掴まれたままだった。


 どうしてだろう。


 この手は離されたら嫌かもって思って、離さないでって思って──離して、とも思った。


 わからないから、男子の服を掴んだ。


 ティーシャツのお腹のとこ。


 そうしたら頭、撫でられた。


 顔を上げると、引き寄せられた。


 痛くないのに強くて、頬に聞こえる男子の音が変に気持ちいい。


 ぽんぽん、と背中を叩いてくれて、擦ってくれるのが気持ちいい。


「……シウちゃんを意識しないとか、無理でした。ごめんな、我慢出来なくて」


 謝るなんて。


 我慢、なんて。


 そんなの、そんなの。


「……リョウ君ばっかりじゃ、ない」


「ん?」


「私だって考えた。いっぱい想像した。意識だって──そんなの、当たり前だわ」


「そ、そなの?」


「そうなのっ。私だって……我慢、とか」


 こんなはずじゃなかったのにな。


 もっと特別な感じだと思ってたのにな。


 いつもみたいに言い返しちゃうし、ちっとも思い通りにいかない。


 甘いのが溢れてるくせに、溢れていないフリをして、けれど、我慢やーめたぁ。


 男子の首に手を回して、頬ずりして眼鏡が邪魔だなって思って、柔らかい髪を撫でてて、男の人の身体に抱き着いて、男子の甘い匂いを感じて──むかつく、泣けてきた。


「……愛してるわ」


 ああやだ、囁くので精一杯。


 まだ私は、臆病者だわ。


 けれど頑張ったの、届いて私の小さな勇者の声。


 すると男子が少しだけ強く抱き返してくれた。


 私達はいっぱい話してきた。


 なんて事ない事もなんて事ある事も、私だから、男子だから話したい話を、私達の話を。


 それなのに今、話をしなくても、何も聞こえなくても、わかるの。


 愛されてるって、わかるの。


「……えへ、ちょっとだけ怖かった」


「俺もぉ」


「そうなの?」


「当たり前だろ」


 男子が私ごとベッドに倒れて、お互い横向きに寝そべった。


「──大切にしたいのに、忘れるかと思った」


 私は女で、男子は男で、大人のようで、子供のような私達。


 それに──と、男子がごにょごにょ言ったのはよく聞こえなかったけれど、これは聞こえた。


「この先はまた今度……と、思ってるんですがどうですか駄目ですかいいですか」


 早口で敬語の男子が可笑しくて、可愛いかった。


「はいっ」


 だから私も急いで敬語で答えちゃった。


 それからまた、うとうとするまで私達はキスをした。


 はちみつ味は、先に夢の中に行ったみたいだわ。

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