第363話 はちみつ湯(前編)
夜は暗くて何も見えないなんて誰が言ったんだろう。
街灯も少ないここでも俺ははっきり見えているのに。
フェイドブルーのワンピースのユーネックの空いた首元、半袖から伸びた腕、ひらひらと裾を蹴る足、ぺったんこのサンダル。
海の近くだからか少し強いけれど涼しい風が肌を撫でて、髪や服を靡かせる。
そんな彼女の微笑む横顔がはっきりと見えている。
部屋ではクーラーばかりだけれど、こういう夜涼みは気持ちよさが違った。
小旅行効果か、女子といるからか。
まだ熱が冷めない手のひらも細い指も、それでも離そうとしないで、俺も離したくなくて。
「──海が青いだなんて誰が言ったのかしら」
唐突に女子が言った。
海は青い。
誰かはわからないけれど、誰かが言ったのは確かで、けれど今見える海は。
「……藍色?」
夜のせいか、月のせいか。
「月は黄色いものだと思ってた」
「ふっ、白?」
「いつかあなたと見た月より濃いわ」
あれはまだこんな風に手を繋ぐ関係じゃなかった頃。
変に喉が渇いて、緊張した学校の放課後に上っていた。
「白ってかクリーム色?」
「蜂蜜を薄めた色」
「似てね?」
「甘いのはどっちもかも」
味で例えるのは女子らしい。
青く、白く光っているようにも見える横顔は、夜の海に触れた色をしている──なんて言ったら彼女っぽいだろうか。
言ってみた。
「あなたは本当にロマンチックね」
言うんじゃなかった。
木の柵に腰掛けて苦笑いしていると、続きがあった。
「茶化してないわ。そういうところ好きだもの」
もちろん他にも好きなところはたくさんあるけれど、と女子は手を繋ぎ直し、柵の向こうに見える夜の海を眺める。
そんな俺は苦笑いから含み笑いになった。
女子のこういう、隙をついてくるところは面白い。
少し照れが入った、好きなところだ。
ふいな話でも、冗談交じりの話でも、無言でも。
何も語らない月のような、お喋りしたがる海のような。
本当は静かじゃない夜のような。
「──月が綺麗ですね?」
「え? あー……あん?」
「ふふっ、そうよ」
有名な訳の一つ。
この訳は有名だけれど私はさらにの返しの方が好きだと女子は言う。
さぁ、俺は何て返すでしょうか、という期待の視線が待っている。
一度、二度と左右に首を傾げて考えてはみるものの、うーん……。
目を合わせては、逸らしてしまった。
うーん……俺なら、こうかも。
「……明日も見たい?」
疑問形の答えは俺らしいっちゃ、らしい、かも。
けれど、こう──訳したい。
いつかの時はまだこうじゃなかった。
ただの
ただ見ている月のままで、見えないものは見えないままだった。
今は確かに、ここにある。
「……何笑ってんのー?」
女子の頬をむい、と軽くつまんでみると、女子も俺の頬をむい、と軽くつまんできた。
薄い藍色の夜の中で、お互い少し赤い気がするのは、気のせいじゃない。
「……ああ、リョウ君だなって、思ったの」
「俺?」
「うん。私との明日を見てくれる。こんなに嬉しい事、他に知らない」
そう言って女子は喜びか照れ隠しか、繋いでる手を子供のように、ぶんぶん、と振った。
それが伝わった俺は何だかとても、熱くて──。
「──へぷしょっ」
くしゃみが出た。
「くしゃみが可愛すぎる。どうして?」
質問はスルーするー。
「んあー、鼻がむずった。シウちゃんは? 寒くねぇ?」
「急に涼しくはなったかも」
これ以上冷やしてもよくない。
「戻るべ」
「えー……もうちょっと」
名残惜しいのはわかる。
「なら、ゆっくり」
まだ眠らない夜は続く。
納得したか、女子は月を仰ぎながらこう言った。
「帰ったら、月を落として飲みましょう」
「ふん?」
「くしゃみさんがいるから私がいつも飲んでるのをご馳走するわ」
何が何やらと思ったら、蜂蜜を落とした白湯──はちみつ湯だと言う。
冷たいものばかり食べていたし、いい提案だ、と足を運ぶ。
一歩、二歩、女子の歩幅に合わせる。
繋いだ手から歩いた拍子によろけて当たった腕が、さらり、と撫であった。
……夜って不思議だ。
シウちゃんがもっと、ずっと特別に見えるなんて。
もっと、ずっと、くっつきたいなんて言ったら、どうなるんだろう。
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