第311話 ジンジャーエール(前編)

 実習棟の二階の真ん中、書道部の部室で私は涼んでいた。

窓を全部開け放ち、放課後になってもまだぬるい風を入れている。


 どういう字にしようかなぁ……。


 体育祭が終わったばかりだけれど、次のお祭りに向けてもう頭は切り替わっている。

まだ早いとも思うけれど、勉強の合間に、息抜き、空想する。

明るい空を見上げて目を瞑る。

浮かんで、消えて、また浮かぶ。


「──先輩」


 去年は和歌だった。

和歌は好き。

美しい日本語の並びは読んでも書いても気持ちがいい。


「──せんぱーい」


 それと四字熟語。

パフォーマンスも刺激になる。

一回勝負の自分との対話、緊張の中の平静、達成した時の快感は深呼吸の後のような──。


「──先輩ってば!」


 あら?


 机に顔を横に付していた私は、ぱち、と目を開けた。

そこには声の主、ハギオさんがいた。

ドアップの顔は心配そう。


「こんにちは、ハギオさん」


「こんにちは……具合悪いとかですか?」


「いいえ?」


「何回呼んでも気づかないから」


 少し空想が過ぎたみたい。

体を起こして背伸びをすると、んん、昨日の疲れが残っているのか背中が、みしみし、と伸びた。


「元気よ。ハギオさんは?」


「変な質問ですね。元気ですけど」


「ふふっ、ところで今日は練習?」


 ハギオさんはバッグを下ろして部室の後ろへと歩いていく。

私は座ったままお尻を滑らせて体ごと目で追った。


「練習というか……あたし、書道の事全然知らないので先輩達の作品、見ようかなって」


 書道部の今までの作品や記録は全てファイルにまとめてある。

文化祭での展示なども写真として残していて、私もたまに見返す。

あの時書いた気持ちや、皆の字からインスピレーションをもらうためにだ。


 買っておいたジンジャーエールのボトルが汗をかいて机を濡らしている。

構わず掴んで蓋を開けると、ぷしゅっ、と小さく空気が飛び出た。

そしてひと口飲む。


 んんっ、強めの炭酸が、ぐっ、と喉にくるけれど爽快な感じ。

暑い日にはぴったり、お腹もふくれる気がする。


「──先輩はどうですか?」


「ん?」


「最近、とか」


 珍しくハギオさんから雑談のフリがきた。

多少の驚きはあるけれど嬉しい驚きだ。


「んー、日に焼けたかしら」


 ハギオさんはバッグと一緒に日傘を置いていた。


「それは皆ですよ。体育祭ありましたし」


「ふふっ、そうね」


 私も立ち上がって部室の後ろの棚に、ハギオさんの隣に並ぶ。

見ているファイルを覗くと、ちょうど私が一年の時の作品の写真があった。


「……最初にあたしが言ったの、覚えてますか?」


 私とハギオさんの最初は──嫌いだなぁ、という言葉だった。


「ええ、はっきりと」


「少し、変えてもいいですか?」


 するとハギオさんは私の字を見ながら、なぞりながらこう言った。


「……先輩の字は、綺麗です。あたしもこんな風に書いてみたい」


 なんて嬉しい言葉だろう。

そしてため息が耳についた。


「あの時、かっこつけでパフォーマンスしてるんだと思ったんです。あたしの勝手な解釈の押し付けでした……ごめんなさ──」


「──謝る事じゃないわ」


 感じ方はひとそれぞれだ。

嫌いな人もいれば興味がない人もいる。

それを強要して好きにならせるなんて、そっちの方が私は好まない。


「ありがとう。ハギオさんの事を教えてくれて」


「あたしの事、ですか?」


「ええ、あなたの事をもっと知りたいわ」


 引退の九月までもう二ヵ月しかない。

いいえ──まだ二ヵ月もある。

私はきびすを返すとハギオさんの日傘を指差して、開いても? と尋ねた。

素敵なレースの黒い日傘を教室の中で広げる。

くるり、とを回して、どう? と微笑んだ。


「私も真似しようかな」


「……変な目で見られますよ?」


 聞けばクラスの子にそう見られたとか。


「気になるの?」


「いいえ?」


「うん、私もどうでもいいかな」


 そう言うとハギオさんは数秒きょとん、とした顔をして、それから笑い出した。


「ふっ、あはっ。あたしわかりました。なんで先輩が苦手か」


 え、苦手だったの? え?


 するとハギオさんは、ある意味似てるんです、あたし達、と言った。


 似てると駄目なのかしら……けれど苦手? んぅ?

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