第312話 ジンジャーエール(後編)

 実習棟の三階の角教室は今日も静かだ。

廊下に響く誰かの足音もないし、はしゃぐ声もまるで遠い。

しかし窓の外──グラウンドから聞こえる声は好きだ。

これもまるで遠いけれど、一生懸命の音が学校のどこかには必ずあるもので心地いい。


 例えば、シャーペンの芯を出す、かち、という音。


 俺は昨日借りた古典のプリントを解いていた。

教科書を見ながら解いているのは多分、俺と同じ組みだった奴ら全員だと思う。

しかしあんなにカトウが嫌がるとは思わなかったので、新発見、といったところだろうか。

俺はもう開き直っていて、勉強の機会が増えた、くらいに思っている。


 ……受験なぁ。


 俺はまだ、どう進みたいかを決めれていない。

あの二者面談からずっと考えてはいる。

考えてはいるけれど、受験勉強という方法でしかまだそれをやれていない。

どこに、何を──俺は、これというものがまだ、ない。


 皆やりてぇ事あんだもんな……いいなぁ。


 なんて、比べて答えが出るわけでもなく、シャーペンの反対側の先でこめかみを掻いた。


「──ん?」


 あと、薄っすらと聞こえる、すぅ、すぅ、という眠りの音が天文部の中にしている。

俺が来る前からは寝ていた。

ゆっくりと体を起こして目を擦り、俺を見上げる。


「よ、起きた?」


「……おはよ、ございます」


 まだ寝ぼけているのか自分を確認するこいつ──ミヤビちゃんは俺を見てから右、左、そして上や下へと目配せする。

ミヤビちゃんは窓際の壁を背に、床に座ったまま寝ていた。


「……俺、結構寝てましたね」


「そだなー、一時間くらい?」


 ペンケースにつけた小さな懐中時計で時間を見る。

手に取った時に鳴る、しゃら、とした音も、聞こえない時間の音も好きだ。


「起こしてよかったのに」


「なんで?」


「なんでって……なんでもない、ですけれど」


「ならいいじゃん。気持ちよさそうだったし」


 そして俺は自分の目の下をとんとん、と指差した。


「クマ」


 ミヤビちゃんの目の下には薄っすらクマが出来ていた。

今までにない顔が起こさなかった理由の一つだ。


「あー……俺、夜が好きだっつったじゃないですか。それで」


 聞けばミヤビちゃんは屋根裏部屋を自室としているらしく、その天井にある窓から夜を見るのが好きだそうだ。


「──どんなに見たって、星って落ちてこないんですよね……」


「ん?」


 まるで聞こえなかったので聞き返した。


「いーえ」


 ミヤビちゃんは立ち上がって椅子を引きながら俺がいる机の前に座った。

間近で見ても、ミヤビちゃんはイケメンだ。


 何だろな……どっか悲し気──


「──お前さ、暇?」


「今ですか?」


「じゃなくて、期末テスト終わりらへん」


 生物部のモデルの企画の候補にミヤビちゃんをと推薦していたのを思い出した。

一年生も巻き込もうというむねもざっくり話したのだけれど、ミヤビちゃんは頷きもせずに聞いていた。


「……どう、っすかね?」


 表情の一つでもあればどっちか分かるのに、ミヤビちゃんの顔は全く変わらないので困った俺は変に敬語っぽくなってしまった。


「……暇ですけれど」


 そして少し笑ったので何故か、ほっ、とした。


「じゃ、じゃあオッケ?」


「いいですよ。俺で役に立てるなら。化粧とか全然わかんないし、あれですけれど」


 それは俺も同じだ、と言うとまた笑った。


 けれど──ミヤビちゃんの動きが止まったのはすぐだった。


「ん? どうし──」


「──リョウちゃん先輩の彼女さんもいるんですかね?」


「へ?」


 あー、あーそっか、前にぶつかりそうになった時しか見た事ねぇから気になってるんか。


 俺は頭を掻きながら少し俯く。

からかうとかはしないと思うけれど、こうやって聞かれると気恥ずかしいものがある。


「い、いるよ。んでも彼女だからとかそういうんじゃなくて、第一弾の企画参加者だったからってだけで──」


「──


「そう、シウちゃ……え?」


 フルネームが出てきて顔を上げると、ミヤビちゃんは俺を少しだけ睨むように見ていた。


「……リョウちゃん先輩、別れる予定あります?」


 何の質問か──どういう質問か。

俺の中で一瞬の動揺、そして少しだけ怒りみたいなのが起きた。


「ねぇよ」


「そっか、残念」


「シウちゃんを知ってんのな」


 机にシャーペンを転がして真っ直ぐに聞く。


「何、好きなの?」


「そう聞こえました?」


 うん、だからこう答える。


「俺、負けないよー?」


 にやっ、と笑ってもみせた。


 駄目、シウちゃんは俺の彼女で、俺の好きな人だから。


「ふっ、違います違います。そういう方法も有りっちゃ有りかなって思ったんですけれどねー」


 そしてミヤビちゃんはおもむろに立ち上がると机に手を付いて、前のめりで俺を見下ろしてきた。


 机の上に置いていた携帯電話がライーンの受信の知らせを鳴らす。

女子と一緒に帰る約束をしていたのできっとその知らせだ。


「何? どったの、お前──」


「──タイミングいいなぁ、ほんと……」


 その時だった。


 部室の扉が開いた音がした。


 ミヤビちゃんが俺の胸倉を掴んだ。


 女子の姿が目の端に見えた。


 目の前に、ミヤビちゃんの顔があった。


「…………んぅ?」


 俺は、ミヤビちゃんにキスされていた。


 そして、何かが落ちた音がした。

どん、という音と、転がる音がした。


 それから──女子の声が届いた。


「──返せ。それは私のだ」

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