第238話 ナッツキャラメリゼ(後編)
一人暮らしのマンションは決して片付いているわけでもなく、散らかっているわけでもない。
ソファーにテーブル、テレビがあれば立派なリビングだ。
帰ってきて速攻シャワーを浴びた俺はスエット姿で缶ビールのプルタブを引っ張り、一口、二口と炭酸を喉に流した。
くぅ、と刺激に耐えて息を吐く。
あー……たまらん。
疲れ取れるぅ。
最近は缶ビールと何かの晩飯が定着してしまっている。
レンチンした総菜をテーブルに並べて、すでにつけていたテレビを前にソファーに腰掛けた。
帰宅時間は八時を余裕で超える事が多い。
今日は早い方か、それでも洗濯やこのように簡単な調理をすれば九時もあっという間に過ぎる。
俺の日常はこの繰り返しだ。
学校に行き、帰ってきてテレビ鑑賞、酒を飲んで寝る。
それが嫌だとは思わない。
俺はずっと教師になりたかった。
二十四の年から八年、俺はずっと教師だ。
一度も辞めたいと思った事はない。
テレビでは若者が好みそうな学園物のドラマが流れている。
……懐かしいねぇ、俺もこういう時があったか。
行儀悪く頬杖をついてまた缶ビールを飲む。
早々に食べてしまった夕飯以外に何かつまむ物──そういえば買っておいたやつがあったな、と調味料と飲み物くらいしか入っていない冷蔵庫へと向かった。
なーんで甘いもんが食いたくなんだよなぁ……。
ナッツのカラメルが絡んだやつ、と呼んでいるそれを一粒、二粒食べつつまたソファーとテーブルの間に座り直す。
するとテーブルに置いていた携帯電話が唸った。
誰からだ、とタップすると大学時代の友人からで内容は喜ばしいものだった。
またか、というのは副音声にしておく。
俺達の年では珍しくない、結婚報告だった。
喜ばしい事、なんだよなぁ……。
簡単に返信した俺は携帯電話を後ろのソファーに投げた。
許嫁、なんてのは今見ているドラマでしかお目にかかれない、耳にしない出来事だと思っていた。
二十九の年でそれを聞いた時はさすがに呆れた。
しかし話をよく聞いてみれば親は祖父母は至って正常に本気で、すでに結婚している姉は諦めろと言うばかりだった。
家は姉が継いでいるためそれは俺が知るところではないけれど、俺の言い分は頑として聞いてくれなかった。
……古い約束でも結んだら揺れないからなぁ……良い事なんだか、悪い事なんだか。
はぁ、とため息をつく。
否応にも俺の許嫁──イツキは俺に関わってきた。
それは俺の家と同じような境遇か、はたまた俺と同じ諦めか。
それでなくとも教師と生徒という位置で関わってしまった。
俺は、イツキを知ってしまった。
イツキはまだ子供だ。
どんなに大人ぶろうともその年は変わらない。
十六から十七、十八──俺との十四の差は変わらない。
けれど初めて見た時、俺はイツキをそう見てしまっていた。
そう、見てしまっていた。
俺は単純だ。
小難しく考えるのは性に合わない。
あの時、初めて会った時、俺はイツキを生徒として見れなかった。
子供として見れなかった。
……青臭いガキかよ、全く。
初めて誰かに惚れたわけでもねぇのによ。
そう言い訳したところで俺のイツキに対する想いが変わるわけでもない。
けれど、そうなってはならないと俺は自分に線を引いている。
俺はイツキのこの先を楽しみにしている。
色々見て、聞いて、知って、学んでほしい。
許嫁だからという理由で俺に収まらないでほしい。
たくさんの好きを見つけてほしい。
誰か──他の人を見てほしい。
友情でも恋情でも、知るべきだ。
俺がそうだったように。
……早すぎるんだ。
これは俺のエゴだ。
良い人ぶるつもりは毛頭ない。
俺は悪者でいい。
イツキが俺に好意を寄せていてもだ。
俺は、イツキの前で一人の男になってはならない。
けれど、それでも──誰かの女になってしまったイツキを見るのも、俺は嫌なんだと思う。
きっと揺れる、揺れて、動くだろう。
どうして俺は十八じゃないのだろう。
どうして大人なのだろう。
ビールを飲んだ時、いつか生徒に言われた事を思い出した。
生意気な女子生徒で、鋭く、大人のような子供の言い分を俺はずっと考えていた。
──もし俺が高校生だったら、きっとイツキはいない。
今、イツキはいる。
三十二の教師の俺に、十八の生徒のイツキがいる。
……それがもう少しで終わる、と俺は考えていいのだろうか。
誰の許しを得ていいのかわからないこの恋情を俺は、答えないままでいるべきなのだろうか。
俺は最後のナッツを食べて、ビールを飲み干した。
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