第217話 アマンドショコラ(前編)
二月十四日。
恋人達の日で、片想いの人達の日で、そうでない人達の日で、チョコレートに浮かれる日。
学校の至るところから甘い香りがしてきそう。
チョコレートに想いを乗せた女の子達は楽しそうで、不安そうで、もしかしたらと期待する男の子達も楽しそうで、落ち着きがないようで。
そんな日の放課後、私は紙袋を手に席から立ち上がった。
「──行ってきます」
前の席の男子の背中にそう言うと、男子は私を見ないまま、後ろ手を軽く振った。
そして小さく、待ってる、と聞こえて、うん、と答えた。
※
放課後は誰かの声が遠くから、近くから聞こえて好き。
下駄箱に並ぶ上履きを見るのが好き。
革靴を少し上から、ぱたん、と落とした時にやや響く音も好き。
同学年の知らない生徒とすれ違うのも好き。
しまった。
まだ寒いというのにコートを忘れてしまった。
紙袋の紐を捕まえたまま、私は手の中に息を吹きかける。
白い息は
……大丈夫。
頑張ろう、私。
部室棟の一階、写真部にいるだろうか──そう思って昇降口を出た私と横並びに彼も出てきた。
背が高い下駄箱で見えなかったようだ。
三台分向こう側で、その分、離れたところから、レン君は私を見て驚いていた。
彼は知らない。
私を見る時、いつも少しだけ驚いている事を。
それを私が知っている事も、知らない。
「こんにちは。写真部に行こうとしてたとこなの」
そう言うとレン君はバッグを肩に掛け直しながら、今日は部活休み、と言った。
帰る前でよかった、と一つ息をつく。
私はレン君に近づいた。
レン君も私に気づいた。
昇降口の真ん中辺りで、私達は向かい合った。
「……何?」
そう呟くレン君は知っているのに、知らない風に聞いた。
こういうところはレン君のずるいところだ。
ずるくて、いいところだ。
私と、同じ。
「──レン君は私に似てるわね」
「……嬉しがったらお前、嬉しい?」
「んふっ、微妙かも。それでも……うん、言いたくなったの」
「それは俺も」
片方、ポケットに入れていたレン君の手が出た。
柔く握っている手が、待っていた。
昇降口に入ってくる冷たい風が私の髪とスカートを揺らす。
レン君の髪も揺れている。
帰り際の生徒が遠巻きに私達を見ている。
少し邪魔になるかも、とレン君の後ろを見て、端の傘立ての方に寄った。
隅の三角の影の中に私達は立つ。
「……部室じゃなくてよかったかも」
「どうして?」
「二人ってのは結構拷問」
「こんなに優しい私なのに?」
冗談にレン君は薄く笑った。
「……今も、二人よ?」
「うん。だから──こういう事」
レン君は、こっちに、と指を差して他のクラスの靴箱の前に私を立たせた。
そのまま近づいてきて、私に影を作るように靴箱に腕をかけた。
触れられてはいないけれど、捕まえ、囲われているような、そんな感じがした。
私は近くのレン君を見上げた。
「…………ちょっとは驚けや」
そう言ってすぐにレン君は離れた。
「クサカの方がいい反応してたっつーの」
「えっ?」
「ふっ、驚きポイントはそこかい」
呆れたようにレン君はまた笑った。
けれどまたすぐに戻った。
「……こういう事したかったんだ。クラキを動かしたかった。でもまぁ、答え出てたな」
そしてこうも言った。
「──お前も上手いよな」
私は
……そうよ。
私も、ふりをしていたの。
知らないふりを、わからないふりを、していたの。
レン君は私の秘密の部分を知っている。
だから、付き合ってくれていた。
まだ変われない私の部分を
「……ごめんなさ──」
「──いい。俺がそうさせたんだ。それでいーんだよ……ほんとは、お前の秘密をネタにしようかとも思ってたんだ。でも出来なかった。つか出来なくてよかったって思ってる……すげぇ楽しかった」
そしてレン君は私の頭をくしゃ、と一度、撫でた。
「ありがとな」
……ああ、もう。
私が言うはずだったのに、上手くいかない。
けれど、それでも。
私は詰まる喉で届ける。
「……こちらこそ、ありがとう。これ、貰ってくれますか?」
「おー、ありがとな」
バレンタイン──色んな恋がある、日。
受け取ってくれたレン君は、早く行け、と私を後ろに向かせて背中を押した。
※
教室の扉の前で私は、むん、と気合いを入れた。
そして扉を開けた。
クラスメイト達はもう教室にいなくて、一人だけ、いた。
いつものように漫画を読んでいて、横向きに座っている私の──私の、恋の人。
「ん。おかえり」
男子はいつものようにそう言った。
私を待ってくれていた。
そこで、私の糸が切れた。
もう、やだなぁ。
いっぱい我慢したのになぁ……。
大きな二粒目が落ちた時、男子はゆっくりと、私を抱き締めてくれたのだった。
「……ただいまぁ」
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