第198話 れもん水(後編)

 俺は抜けている。

せっかく夜中までかかりながらも解き終えた課題のプリントを忘れるなんて、結局また学校で同じものを解くはめになってしまった。

けれど復習と思えばいいか──思うようにした。

課題を忘れた他のクラスメイト達はすでに終えて教室を後にしている。

今は俺、ひとりだ。


 冬休み明けの学校、教室の廊下側の窓際、後ろから二番目の席で俺の腹は鳴っている。


 職員室に行くだけなのに遅くねぇか? ……甘いもんにでも誘われたか?


 いやいやまさかどっかの童話じゃあるまいし、とまた鳴った腹を撫でて机に突っ伏す。

昼飯を一緒に食うと約束したのだ。

先に食べるわけにはいかない。


 早く帰ってこーい──。


「──ただいま!!」


 びくっ、と体が跳ねた。

原因はその音量だ。

教室の扉を開ける音も、帰ってきた声も通常のそれではない。

訝し気に振り向くと、上半身ジャージ姿の女子がいた。


「お、おかえり。お前ジャージ着てたっけ?」


 明らかにジャージのサイズが合っていなくて、袖口は手を隠している。

俺が見ているのに気づいたか、女子は腕を広げて、くるん、と回ってこう言った。


「これレン君の。寒がってたら貸してくれたの」


「レン?」


「うん。課題運びを手伝ってくれてね、企画写真を何枚かくれるっていうから部室に遊びに行ってたの」


 それで今まで帰ってこなかったわけか、と窓に頭をつけて横に座り直す。

女子は余る袖口をぶらぶらさせながらまだ座らない。


「どったの?」


「ううん。誰もいなくなっちゃったね」


 そりゃ皆、用がなきゃ教室を出る。

すると女子は俺の席の横に立った。

そして余らせた袖をそのままに手を伸ばしてきた。


 …………はい?


「んふふ、課題お疲れ様。いい子いい子」


 頭を撫でられた。

まだ撫でられている。

俺は口をぽかん、と開けたまま反応に困った。

以前オオカミ先生に見られた事もあっての一応の警戒もしつつの、これ。


「なっ、何これっ」


「いい子で待ってたからご褒美なのです」


「ガキ扱いかよっ」


「嫌なの?」


 ぐ、と言葉が詰まった。

嫌ではないけれど、とりあえず女子を見上げる。

この角度は新鮮だ。

上目に女子の顔がある。


 ……やっぱ嫌、かも。


 俺はまだ撫でる女子の手を取った。


「なーに?」


 返事をせずにジャージの袖を上げた。

やや白い手が出た。


「もっかい」


 ジャージ越しじゃなくって、と俺は頼んだ。


「甘えんぼさんですねー」


 言葉にするなっ、でも嬉しいですっ。


 しかし女子の様子が少しおかしいような、何というか。

教室を出る前はこんなではなかったのに、やわやわ、になっているような。


 ……心当たりが、ある。


 俺は、ちょいちょい、と手招きして女子を屈ませた。

そして両手で頬を挟んで確認する。

少し熱い。


「──お前、レンとこで何か食ったべ」


 マロングラッセ、と女子は素直に微笑んだ。


 はい、確定。

マロングラッセは洋酒に漬けたお菓子だ。

場所が学校だからか前よりはマシだけれど、俺は、はーっ、と息をつく。

こういう女子は極力他の奴に見せたくない。

いや、絶対阻止だ。


「あ、あの、あの──」


 すると女子は俺の手の上に手を乗せ、柔く掴んだ。


「──ちょっと近いので、恥ずかしい、な?」


 さらに女子の頬が熱くなったような気がした。

しかし逃げたいような事を言っているのに、俺の手を剥がしたりせず、ちぐはぐだ。

少しだけ足が後ろに引いたか、というぐらいか。

俺は柔く、女子の頬をむにむに、とつまんで誤魔化した。


 ほんっとこいつは、どうすりゃいいの、って事をしてくるなぁ! ぬぅん!


「……飲みもん、買ってくっから今度はお前が待ってて」


 自動販売機にれもん水があったはず、と俺は女子から手を離してバッグにある財布に手を伸ばす。


「クサカ君の奢り?」


「おん。クラキのために行ってくるます」


「一緒に──」


「──いい子で待っとけぃ」


 そう俺が席を立つを女子は軽く手を上げた。


「じゃあ交代ね」


 また緩く微笑むので俺は軽くハイタッチして教室を出たのだった。

そして全速力で自動販売機に向かうのだった。

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