第197話 れもん水(前編)

 一人、部室に残った俺は窓際の日向に座ったままミニアルバムを見ていた。

ニノミヤの方はもう写真を選んでもらっているし、メイク部の記録としての写真も渡している。

生物部にもだ。

そしてやっと、クラキに写真の事を言えた。

忘れていたわけではないけれど、なかなかタイミングがなくて今日になってしまった。


 ……うん、タイミングがなかったのは、ほんと。


 俺はパイプ椅子の背に、ぎ、と持たれて足元用のヒーターを挟んで足を伸ばす。


 緊張した。

緊張しないように、緊張した。


 はぁ、と、やっとの一息が出た。

緊張からの解放だ。


 黒いミニアルバニには俺がいいとした写真が全てある。

選んでもらったページには付箋紙が貼られている。

全部で三枚、真正面から、やや横上から、それと──。


 ──……くそ。


 いや、くそとかやめよう。

撮ったのは俺だ。


 指で付箋紙を軽く弾いて立ち上がる。

少し喉が渇いた、と半分残しておいたペットボトルのれもん水を一口飲んだ。


 クラキが選んだ最後の一枚は、俺も一番いいと思った写真だった。

薔薇の色も映えているし、アングルも良かった。

それよりも、何よりも──。


「──……花の、人」


 タチバナが言っていたテーマを俺は呟く。

そしてまた日向に座って写真を見た。


 この写真は、クサカが遅れてきた時に見せた顔だ。


 それまでどこか硬かった。

俺や他の奴がいても柔くならなかった。

それはカメラを通した俺でなくてもわかっていたかもしれない。

それでも、俺が一番わかっていたと思う。


 どんなに覗いたとしても、あいつは俺にこの顔を向けない。


 ペットボトルが少し凹んだ。

透明のれもん水が手の中で揺れた。


 ……あー……さっき俺、結構頑張ったのによー……。


 ペットボトルを床に置いて、俺はまたパイプ椅子にもたれた。

ミニアルバムで口元を隠して天井を見る。


 何とも思ってねぇですよ、みたいに近づいたけれど実際心臓ばっぐばぐで反対側の耳から飛び出るかと思いましたけれどね?

そんでもあいつは何も気にしねぇし離れもしねぇし、っていうか首傾げつつ、何か? って逆に心配になるっての……。


 肩ひとつでこのザマだ。

顔も近かった。

カメラの距離じゃない近さだった。


 ……思わず聞いちゃったよ。

普通ならあんま近いと離れるじゃん? 同じクラスの女共もそうだし。

その前にあんま近寄ったりしねぇけどさ。


 近寄ったり、しねぇで……近寄りたいと思った、わけで……。


 悶々とする思考に頭を掻いた。


 俺はこうじゃなかったはずだ。

きっと俺をよく知る奴が見たら、らしくねぇ、とか言いそう。

絶対言われる。


 目を瞑って近くで見たクラキの顔を思い出す。

写真を見て微笑んだ頬、口元。

俺を見る、目。


 ……何だよ、花みてぇとか。

言った事ねぇよそんなの、思ったは思った、けれど、ついにも程があんだろ俺の口! 少女漫画だってこんなん言わねぇだろ知らねぇけどっ!


 今度は羞恥心が襲ってきて頭を抱えた。


 驚いてたなあいつ……そんで、いい人、か。


「……ちっ」


 舌を打った俺は手探りで床に置いたペットボトルを手に取って、キャップを開けた。

そのまま勢いよく全部、れもん水を喉に通す。

やや酸っぱいような、甘いような、甘酸っぱい透明が俺の中に入っていく。


「──はっ」


 溺れる寸前の息継ぎのように大袈裟に息を吐いて口元を拭った。


 クラキは俺をいい人と言った。


 ……くそ。


 これは訂正しない。

俺はあの瞬間、むかついた。

だからすぐに茶化した。

わるい人と言ってくれた方が嬉しかった。


 俺はクラキの中で、いい人止まり。


 友達で、友達のまま。

それ以上はクラキの中にない。

なら俺は、わるい人でいい。


 ミニアルバムの最後は皆が写った写真がある。

これは写ってる奴全員に渡すつもりだ。

そして俺はこの中にいない。


 あの時の俺は、俺の目が覚えていればそれでいい。


「……いい匂いしたなぁ……」


 さっきの距離を思い出した俺はまた頭を掻いて、窓を開けた。

冷たい風に乗って運動部達の声が聞こえてくる。

寒いのによくやる、と何故か熱い耳を引っ張った。

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