第101話 ラング・ド・シャ(前編)

「──一旦、お疲れ様」


 放課後の実習棟、二階の真ん中の書道部で私はカトー君に言った。


「一旦、ってなんすか?」


「まだ完全にお疲れ様、じゃないからよ」


 先ほど、顧問のオオカミ先生に依頼の字を提出した。

半紙に書いたものを十数枚、封筒にしっかり入れた。

まだ提出しただけなので結果はわからない。

なので、一旦、とつけた。


「これからどうなるかわからないしね」


 ここで終わりか、続くか。


「……そうっすね。やっと、肩の力抜けたって感じします」


「ええ。それで?」


 ん? と、カトー君は窓際の席に腰を下ろす。


「手応え」


「あー……まぁまぁ、です」


「本当に?」


「……いーえ。自信ありです」


 カトー君の字は提出する前に少し見せてもらった。

彼らしい彼の字で、私にはない字だった。


「クラキ先輩の字、やっぱ凄かった、です。俺には書けない」


「そう? 嬉しいな」


 カトー君が座る一つ後ろの席に私も腰を下ろす。

横向きに座る彼の横顔を前に見た。

綺麗な鼻筋、目の下のほくろが可愛い。


「……何か、感じ変わりましたね」


 感じ?


「こう、バリアが薄れた、みたいな。前はガッチガチでしたし」


「何それ、どういう──」


「──お邪魔しまっす!!!!」


 突然の大きな声に私の肩も、カトー君の肩も、びくぅっ! と跳ねた。


「……すいません、俺の彼女のムギです」


 まぁ、この子が噂の。


 カトー君の彼女だという女の子は、うきうき、とした足取りで部室に入ってきた。

二つに結んでいる髪の毛は、ふわふわで、足取りと一緒に、うきうき、と揺れている。


「初めましてじゃないけど初めまして! タナカムギです! カトーの彼女やってます!」


 初めましてじゃないって初めましてだと思うのだけれどどこかでお会いしたかしら、と私は少し首を傾げて、初めまして、と応えた。


 ……あら? 何だか良い匂いがするわ。

香ばしいような──。


「──美味しい匂いはタナカさんから?」


「はいっ! あ、ムギって名前呼びでどうぞ! あたしスイーツ部でさっき焼いてきたんですけれど、お裾分けと言いますか、お詫びと言いますか──」


「──お詫び?」


 そう私が聞くとムギさんはカトー君をじろっ、と見た。

私も同じようにカトー君を見ると、気まずそうに目を逸らしてため息をつく。


「……実はちょっと俺達、余計な事をしたと言いますか──」


 簡単に説明をされたのだけれど、要約すると、男子には𠮟咤暴言、私には隠密行動、らしい。

つまり、私と男子の事でカトー君が色々やってくれた、という事がわかったので──いただきましょう。


「──ありがとう」


 私は微笑んだ。

お詫びも何も、今の私は元気だ。

それだけでいい。

多分だけれどカトー君はムギさんが来る前に私にそれを言いたかったのだろう。

そしてムギさんはもう言ったと思っていたのだろう。

そのまま隠密でも良かったのに律儀な後輩達で、良い後輩達だ。


 それからムギさんは私達に焼き立てのお菓子、ラング・ド・シャを渡して部室を後にした。

これから天文部に襲撃に行くとの事で、男子にもお詫びの品というわけか、と察す。


「元気な彼女さんね」


「はぁ、まぁ──」


「──聞いていいかしら?」


 カトー君は、質問によります、とすぐに言ってきた。

疑いと牽制、めんどくさい事はもうお断りだ、というのが見えてとれる。

隠密していたのに、してくれたのに可愛くない後輩だ。


「どっちから?」


「何がっすか?」



 あ、カトー君の眉間がここ一番に寄ったわ。


「…………ん? クサカ先輩と上手くいったんじゃ?」


「いったような──」


 ──ってないような。


 そう言うとカトー君は、めんどくせー……、と呟いた。

無意識の業か。


「……参考にならないっすよ俺らは。だって同時っすもん。入学式の次の日に、教室で何かお互い見てて、付き合う? 付き合う、じゃあよろしく、みたいな感じなんで」


 何それ素敵。

何もしないで一目でそうなっちゃう恋があるなんて。

いいなぁ、と貰ったお菓子の袋を開ける。

まだほんのり温かい、良い匂い。

その一枚を食べる。


 私も本当は言いたいの。

言いたいけれど、言えないの。

その前に、とか思っちゃうの。


「……言えないくせに、聞きたいなんてね」


 さくん、と私は美味しい音を舌にのせたのだった。

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