第7話 ラムネ(前編)

「──ご機嫌ね」


 机を挟んで隣に座る女子は、前に下がった横髪を撫でながらそう言った。


 放課後の教室の窓際、一番後ろの席で俺は口をすぼませたまま振り向く。


「まぁな」


 言われた通り、俺の機嫌は良い。

抜き打ちの小テストもまぁまぁ解けたし、今読んでる漫画雑誌も面白い。

そしても美味い。


「久しぶりに飲むよな、これ」


「そうね。タダ飲みほどラッキーな事ないわ」


 女子の理由はともかく、冷えたラムネが美味い。

からん、とビー玉を転がせて、くぼみで止めて、炭酸が舌を、喉を刺激する。


「──はっ。俺に感謝しろよ。戦利品なんだから」


「はいはい。ただの荷物運びでお礼なんて先生も人が良いわよね。しかも二本も。けれどそのおこぼれに預かり至極光栄」


「はいはい」


 女子のこういう感じにももう慣れた俺は、冷たいラムネ瓶を左手に持ったまま、膝の上に置いた漫画雑誌を捲った。

もう陽が高くなった放課後に橙色の夕陽はまだ作られていなくて、黄色い日差しを背中に感じる。


 からん。


 女子も少し暑いのか、ラムネ瓶を頬に当てていた。

その横顔を横目で見やる。


「何か?」


「ん、いや。何読んでんのかなと思って」


 すると女子は膝の上から机の上へと本を置いてくれた。


「あ」


 その時、開いた本の上にラムネ瓶からつゆが、ぱたっ、と落ちてしまった。

慌ててシャツの袖で拭う。


「ごめん……月の写真?」


 落ちたところがちょうど月の真ん中。


「ええ。夜の中を見てたの」


 女子はいつも活字の本を読んでいた。

こういうのも読む、見るのかと新しい発見だ。

濃い紫色の中に輝く月は丸くて、白色にも銀色にも見える。

しかし、夜の中、なんてなかなかロマンチックな言い方をする。


「そういや今日、満月じゃね?」


 そう言いながら窓の方に身体をよじった。

水色の空に遊びで描いたような雲が飛んでいる。


「よく知ってるわね。楽しみ」


 窓から空を見上げていた女子は俺に向き直って、薄く笑った。

雲みたいに。

その時、お互い机に向き合うように体をよじったせいか、お互いの上履きの爪先が、こつん、と当たった。

女子は気にした様子もなく、唇にラムネ瓶を当ててまた空を見ている。

俺も何となく目のやり場に困って、頬杖をついて空に目をやった。


 からん。


 ラムネ瓶の周りの露が机に滴り、丸く円を描いている。

女子はいつの間にか、また月の本を見ていた。

同じページの銀色の月を。


「好きなの? 月」


「ええ。手の届かない感じが──」


 女子が月を指でなぞる。

物欲しそうに、愛おしそうに。


 俺は何とも言えなくて、ラムネの刺激を口に含み、一気に喉に流した。


「このビー玉と同じね」


「え?」


 女子は、りん、とラムネ瓶を指で弾いた。


「見えるのに、触れない」


 ああね、と俺は笑う。

そして女子はラムネ瓶に口をつけた。

正面から見られるのは嫌なのか、少し顔を背けて顎を上げている。

こく、こく、と二度喉が動いたのが見えた。

持っている指から手の甲に流れる露が、瓶とは対照的な少し薄赤い唇が、何て言うか──。


 かららん。


「──ふぅっ。あんまり見ないでよ、やらし」


 見ていたけれど、ちょっとやらしい目になっていたかもだけれど、と俺は口を尖らせて女子から体ごと背ける。

そのまま今日の機嫌を取り戻そうと、口笛を吹いた。


 女子は机に頬杖をついて、ページを捲って夜の中を見ている。

横目で女子の伏せた目を──長いまつ毛を盗み見したりして。


 あ、高い音が掠れた。


 からららん。


 女子がラムネ瓶を軽く振った。

口元が少し笑っている。


「上手ね、口笛」


 あ、掠れないで吹けた。


 からん、からん。


 女子が、もっと吹いて、とせがむようにラムネ瓶を揺らす。

振られたラムネは、しゅわしゅわ、と弾けて、瞬いた気がした。

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