第4話
三年生の頃から積極的に参加していたインターンのおかげで、
一般企業を就職先に選ぶ音大の学生は多い。音楽が斜陽産業だと言われてもう久しい――それこそ担当講師である
その中にあって、先輩たちとの違いを挙げるとすると、副業を許可する企業が増えたという点だろう。みそらが三年生の夏に参加したインターン先もそうで、みそらは卒業後、羽田葉子の自宅生の声楽のレッスンを行うことになっている。
そうなると「じゃあコンクールなんかもしばらくは出れるんじゃないかな?」と言い出すのが、例のファントム、もとい、みそらの師匠である木村先生で、芋づる式に三谷も伴奏をやることになる――というのは言い訳で、音楽を続けるということは三谷自身が決めた。今は学生向けのワンルームにあるグランドピアノも、来年移り住むであろうあたらしい部屋に一緒に行く予定だ。
みそらと祖母のおかげだ、とは思う。金銭的に少し手伝うと言い出したのは祖母だったし、卒業後も弾きに行きたいと言い出したのはみそらだった。二人の言葉がなければ、入学当初の予定通り、楽器は実家のあの部屋に帰るはずだったのだ。――みそらが先日泊まった、あの部屋に。
インターンのおかげでもあるけれど、結果的に三谷も副業OKの企業に内定をもらえたし、――こうやって続いていくのだろう、と思う。何らかの形で音楽が続いていく。どういった生活リズムになるのかまだ実感はわかないけれど、この大学四年間とはまったく違うのだろうな、と思いながら三谷は正面の楽譜を見た。
ドビュッシーのピアノ組曲「版画」は、『塔』『グラナダの
だからといって一曲だけを切り取ると――卒業演奏会などでもよくあるけれど――全体の印象が薄れてしまう、と三谷は考えている。これはおとなしくショパンのバラードかスケルツォあたりにしておこうかと悩みながら、リズム練習、片手練習、さらに片手で弾くぶんを両手で弾いて和声や旋律を聴き込んでいく。何度も、何度も。やっているうちに意識はまた遠くにあるような、自分の体と音がひとつ上の階層にあるような不思議な感覚に陥っていく。
ふと顔を上げると、――弾き始めてから二時間は経っているようだった。いつものことだけれど、集中したあとの心地よい疲労を感じながら、みそらのことを思い出す。
みそらはピアノの向こう側、テーブルでノートパソコンのキーを打っていた。横には今やっている楽譜があって、それに関する調べ物だろうか。キーを打つ素早い音が、ふと止まる。
「あれ、ごめん、もしかしてうるさかった?」
「いや、全然。ていうか俺も二時間くらい経ってたの気づいてなかった」
「正確には二時間と十五分くらいだよ」
みそらは笑って、それからうーんと小さくうなりながら伸びをした。
「色がぜんぜん違うね」
「色?」
「雨の色。最後のほうでやってたの、『雨の庭』だよね?」
みそらは軽く腰を上げると、そのまま後ろのソファに沈み込んだ。それを見ると疲労が疲労として筋肉を圧迫するのがわかって――ピアノ演奏は、ほとんどスポーツだ――三谷はピアノの鍵盤の蓋を下げて立ち上がった。
「『城ヶ島の雨』の歌詞を読んでたんだけど、あまりにも色が違いすぎておもしろくなっちゃった」
読んでた、ということは作詞者などその曲の背景について調べていたということだろう。伴奏用の楽譜にはたしか、作詞者は北原白秋とあった。実際にレッスンでやるのは後期に入ってからということで、三谷はまだちゃんと譜読みをしていなかった。
「『利休鼠の雨がふる』って歌詞にあるんだけど、何なのかと思って調べたらバガテルの楽譜みたいな色だったよ」
三谷は思わず譜面台の横に寝かせていたヘンレ版の楽譜を見た。
「利休鼠のほうがヘンレ版より青みがないのかもしれないけど、調べながら、あーあの色かーって思っちゃった」
みそらがソファに体を投げ出すと、ぽすんと軽い音がした。
「だから、おなじ雨でも色がぜんぜん違うなって思いながら聞いてたの。そっちの雨は、なんだろう、ちょっと明るいよね」
三谷が歩いてくるのを見ると、みそらは身をよじってソファの片方に体を寄せた。なんだか子どものような仕草だったのに、見上げてくる瞳はまぎれもなく二十歳を超えた女性のものだった。
「――まだ迷ってる?」
「そう聞こえた?」
聞き返すと、みそらは「ううん」と小さく首を横に振った。髪が光を弾いてゆらめく。
「没頭してるなーとは思ってた。没頭してるってことはたぶん好きなんだろうし、あとわたしが聞いててきもちよかった」
「歌詞読んでたのに?」
音は言葉のようなものだ。思考が混ざってしまっては勉強しようとしても難しい。だから先ほどみそらはキーを叩く音がうるさかったのかと聞いてきたのだけれど、たしかにそれが耳に届かないほどには「版画」に浸かっていたようだった。
「色味がぜんぜん違うから、そうやって比較してみるのもおもしろかった。国の違いなのか、それとも心境なのかな」
とまじめに応えておいて、みそらは隣に座った三谷を見て目を細めた。
「ていうか、質問に質問で返さないで」
「ああ、ごめん」
はぐらかしたつもりはなかったのだけれど、結果的に返答していないことに気づいてすぐに謝ると、みそらは少し顎をひいて「先生たちは?」と言った。
四年生に上がってからは、もともとの担当講師である羽田葉子に加え、ピアノ専攻の大御所である小野
「葉子先生はドビュッシーでいいんじゃないかって。小野先生は……」
三谷はほんの少しだけ口をつぐんだ。
「若干保守的かな」
意外にも思えたけれど、小野先生はドビュッシーを選ぶことに少し難色を示した。今年は卒業試験を控えていることもあって、学内選抜とコンクールの曲を揃えるようにしている。そしてコンクールではやはり、ショパンなどのほうが受けがいい――たぶん、審査員も評価が付けやすいのだ。印象派以降の比較的あたらしい曲の難しさの一端だった。
小野先生と葉子は師匠と弟子の関係だけれど、その違いは曲選びだけではないように感じられた。教え方が違う、と事前に葉子から聞いていたし、それがダブルレッスンを受ける醍醐味でもある。
言うことすべてを絶対的な意見としなくていい、とは、オーディションを兼ねた初回のレッスンで小野先生からは言われている。あなたの本来の先生とわたし、どちらの意見をどう選ぶかはあなた次第よ――きっとそれは今回の選曲でも同じなのだろうとは理解している。
ふと手を伸ばしてテーブルの上にあった楽譜を取る。こんな歌詞だったのかと思っていると、雨はふるふる、とみそらが小さく読み始める。――途端に視界が明瞭になるようだった。
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる
言葉が映像に変わる。雨音がする、肌にふれる、においがする、指先が冷えて、わびしいと何かが言う――普段どれほど漢字に頼ってばかりなのかを思い知らされた気がした。音が――はっきりと――見える。
雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ
絵本を読むようなみそらの声が終わると、自然と声が出ていた。
「ひらがなって偉大だよね」
みそらは一瞬きょとんとしたが、すぐに花がほころぶように笑って、「わかる」と言った。自分たちが普段勉強しているものには基本的に、イタリア語かドイツ語が使われている。けれどこれは日本歌曲――日本語だ。
「お茶入れるけど、飲む?」
みそらがいつも飲んでいる、喉にいいというハーブティだ。うん、とうなずくと、みそらが立ち上がってキッチンに向かう。それを追うように視線をやると、まだブラックアウトしていないパソコンの画面が見えた。
ブラウザの一部に表示された色は、たしかにヘンレ版の青みを薄めたような、『雨の庭』のイメージとは違う色だった。その上にある日本語に視線が吸い寄せられる。
「りきゅう……ねず」
思わず声に出す。――先ほどみそらが音読した歌詞にはあったはずの音が、ふりがなから一つだけ抜けていた。
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