第3話
二人が大学のほうへ戻ったのは翌日の夜のことだ。夕飯までを三谷の実家で済ませ、電車を乗り継いでまた一時間と少し。地元とはまた違った、学生街ならではの微妙な高さのマンションが並ぶ町並みが車窓から夜陰にうっすらと見えてくると、地元とはべつの何かがほっとするのを感じる。
みそらが渡された料理のおすそ分けを抱え、三谷がみそらの小さめのスーツケースを引いて家につくと、時計の針は二十二時と半分を過ぎていた。部屋には一週間前に出たときと同じ姿でグランドピアノがゆったりとくつろいでいて、その姿に今度こそほっとしたのを自覚する。
「練習、するでしょ?」
スーツケースの小さな車輪を丁寧にタオルで拭きながらみそらが言う。
「わたしはだいじょうぶだよ。もうご飯も食べちゃったし、おうちで少し発声練習もさせてもらったし」
このマンションの練習時間は二十三時までだけれど、たしかに声楽の性質からしてもこの時間から声を出すのはあまりよくない。そんなことを考えていると、「弾いて」という軽やかな声が聞こえた。
「楽譜、持ってきたよね?」
「……見てた?」
「ううん、なんとなく」
小首をかしげて言うみそらは、それこそ舞台上で男役を誘惑するソプラノ歌手のようだった。それが嫌味なくかわいらしいから、山岡みそらは根っからのソプラノなのだ。
「先にお風呂入るから、その間弾いてていいよ」
片付けながら聞くね、とみそらはこだわりなく微笑んだ。そのまま荷物を開けてあれこれ動き始める。かなわないなあと思いながら、三谷は自分のカバンから楽譜を出した。
きっと、はじめて買ったヘンレ版の楽譜は、このバガテルだったはずだ。今ではすっかり馴染んでしまったヘンレ版は、バッハ、ブラームス、シューマン、そしてベートーヴェンなどといったドイツ人作曲家の多くラインアップしている。この灰色とも青ともつかない、暗く微妙な色合い――でも見慣れると間違いなく「ドイツ作品だ」と納得してしまうのもこのヘンレ版だった。
バガテルの楽譜は薄い。しかも入試ほど使い込んだベートーヴェンソナタほどの柔らかい手触りでもない。さらさらとした表面は、新品のヘンレ版の特徴だ。
ピアノの蓋を開け、譜面台を立てる。そこに楽譜を置いてみても、なんとなくしっくりこないのは、やっぱりこの曲をやったときの記憶が薄いからではないか、と三谷は思わず首をひねってしまった。
中学のうちのいつだったか、コンクールの曲だったのは覚えている。練習した記憶――譜面を読んだ記憶も、ある。古典派らしいリズム、旋律、すべて楽譜のとおりに描かれる音に間違いなどない。けれどそれくらいで、コンクール本番の映像が脳内アーカイブに入っていない気がする……
そんなことを考えていたせいか、何かを持て余したような気分で弾き終えた。短い曲が数曲集まったものだとはいえ、バガテルを通しで弾くと二十三時はすぐだった。みそらと入れ違いに風呂を済ませてもやっぱり妙にしっくりこないような感覚を抱えたまま数日振りに体を重ねると、なんだかやっと落ち着いた気がした。開けた窓から夏の水分を含んだ夜気が流れてきて湿った肌をなでていく。このあたりは都心部よりも星が見える。
「ふつうの顔してる」
声が聞こえて振り返ると、薄暗い中でみそらが伸ばす指が白く映える。それが自分の頬にふれると、また花の香りがするようだった。
「ふつうって?」
「なんかさっきまで、というか弾いてたときかな、なんかちょっとしっくり来てない顔してたよね」
「……なんでわかんの?」
ほとんど呆れて言うけれど、みそらはくすくすと笑う。
「だいたい音にだだ漏れなんだもん。わたしにだってそんなこと言うくせに」
たしかに調子が悪いのも良いのも演奏では隠し通せるものではない。とくに自分の声帯を使うみそらたち声楽専攻はそれが顕著だし、さらに言えば音楽を専門的に学んでいない家族だってそうだ。練習が終わってリビングに戻ると母や祖母に「今日は何にいらいらしてるの」「今日はあの曲、調子良さそうね」なんて言われることもしばしばだった。
「昨日の演奏とちょっと、真反対だったかも」
「……忌憚のないご意見で」
ぼかしてはいるが、みそらの言い方は「全然よくなかった」と同義だ。自覚はしていたけれど、それでもちょっとだけ落ち込む。みそらは「これは違ったよ」と言ってこちらに体を傾けた。細いけれど歌う筋肉にしっかりと包まれた体を覆う肌がこんなに薄くていいのだろうかとふれるたびに思う。
「さっきのバガテルは、音の綺麗さとかリズム感とかの問題じゃなかったな。なんだろう……三谷がちゃんと喋ってない感じ? 喋ってないっていうと昨日の人にかなり引きずられた言い方になっちゃうね」
みそらは言って、また考え込んだ。天井を見上げてもまつげはきれいに上を向いていて、視線の先に昨日の映像を引き出しているようだ。
「あの人は、本当に語るように弾いてたよね。でも三谷ってわりと、絵みたいだなって思うときがある」
「絵?」
「絵というか、映像かな。昨日ご飯を見ててもそう思った」
先ほどまで自分の頬にふれていた指先を、みそらは彼女の下唇に当てた。短く整えられた爪に落ちる昏い光は静かな雨のように揺れている。
「トマトとかきゅうりとかの季節のお野菜が並んですごく鮮やかなの。絵本とか……印象派の絵画みたい。語るっていうよりも描く、って感じかな」
「そんなにめずらしいもの並んでた?」
「めずらしいものっていうよりも、季節のお野菜をしっかり並べるところがめずらしいのかも。今はいつでも旬、って言うでしょ。でもちゃんとそこがしっかり『夏』だなと思った。冬にお邪魔したときはちゃんと冬だったし、春も菜の花のおひたしとかあって、色からも温度とか湿度がわかる」
言って、みそらはもう一度、三谷のほうに体を向けた。まつげが花のように開いて、水を張ったような黒い瞳がこちらをまっすぐに見る。
「もしかして、
喜美子とは祖母のことだ。みそらは三谷の祖母とじかに会ってから、「おばあさん」ではなく名前で呼ぶようになった。
たしかに、と三谷は考えた。母が働いていることもあるけれど、祖母と母はよく一緒にキッチンに立っている。そういうときはたいてい、食卓のいろどりが豊かになることに、――なんといまさらながら気づいた。
「……そうかも」
気の抜けた返事に、みそらが「いまごろ?」と笑う。その音は昔みそらが歌った『わたしの名前はミミ』のアリアを思い出させた。
「喜美子さんのセンスって、けっこう三谷に受け継がれてる気がするよ。三谷のピアノからは、そういう日常の色が見える」
「そう?」
じゃあ、と言って上体を起こす。
「山岡はクリスティーヌ。レッスンのときの木村先生と山岡見てると、ファントムとクリスティーヌが歌う『the Point of No Return』見てる気持ちになる」
「ほんとに? やった」
みそらはミュージカル『オペラ座の怪人』に影響を受けて歌――最初は合唱団や部活だったらしいが――をはじめたと聞いている。三谷はみそらの伴奏をしているので、もちろん毎週のレッスンに参加しているが、そのやりとりはそのような――歌に魅了された者同士にしかわからない、深く絡み合う情熱のようなものがあるように見えた。レッスンのたびに、人間がもつ声の重量を感じるのだ。
たとえに素直に喜んだみそらにちょっとだけむっとして、そのまま相手の体に重さを載せる。
「ソプラノってほんと悪い女だよね」
「先生がそう意識しろって言うんだもの。それにクリスティーヌが選ぶのはラウルだよ」
「じゃあ――」
言いかけて、やめて、そのまま唇をふさぐ。みそらはやっぱり拒まない。細い鎖骨から汗がこぼれるのを見てもう一度彼女の中に沈んでいく。薄暗くてもみそらの色ははっきり見えていて、互いのリズムと熱を追っているとなんだかピアノを弾いているようだと思考の片隅で言葉がころがっていた。
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