第2話
日曜の演奏会だったため、終了は夕方だった。祖母から夕飯の用意をしているとチャットが来ていることを伝えるとみそらは大いに喜んだ。料理や色んな話を通じて祖母の人となりに興味を持っていたみそらは、今年の正月に初めて会って以来、ずいぶん仲が良かった。もちろん母ともそうだけれど、祖母に妙に興味をもっているのはきっと自分にまつわるあれこれがあったからだ。
会場から家までは電車で一時間もかからない。帰宅した頃にはまだ夕飯は出来上がっていなかったけれど、みそらはすぐに演奏会用の服を普段着に着替えて手伝いを始めた。
窓から入ってくる光はまだ明るく、夏の時間を感じさせる。冬とはまったく違う、輪郭がはっきりするような色。それでいて日が落ちる間際、藍の中で星が輝く季節。うだるような熱気の中に感じる、夜を迎える涼やかな風。
そんなゆるやかな季節の移ろいを感じながら食事をしている間にも、自分の奥深くで小さく音が聞こえているのがわかる。鈴のように小さく、金属の跳ねるような音。水滴がしたたるように小さく小さく。
いつもなら片付けを手伝うところだったけれど、みそらがそれをやるというのでキッチンを追い出された。「あんたはサイズが大きいのよサイズが」と母に言われたが、要するにみそらがいてくれるのが嬉しいということらしかった。
そんなことを思いながら引き戸を開けると、その部屋はいつものようにがらんとしていた。けれどその中に今日はみそらの荷物がある。用意されたハンガーにかけられたワンピースと、実家から引いてきたスーツケース。その二色が増えただけでもこの部屋の空虚がこんなにも埋まるのか、とほとんど感心してしまった。
部屋はもともとピアノを置いていたフローリングの部屋だった。仏間のある座敷の隣にあって、来客があったときの料理やお土産を置いておける部屋として用意されていたものだったけれど、
フローリングの床に、低めの棚が置いてある。中はすべて楽譜で、小さな頃から使っていた楽譜――バーナム、ハノン、ツェルニー百番、ソナチネ――なんかはほとんどここにある。その中でもいくつか高校や中学になってから使うようになった外国の版があって、三谷はそう広くない――たぶん今自分たちが暮らしているワンルームの部屋よりも狭いそこに入って、見慣れた背表紙の楽譜を探す。
全音の背表紙、バーナムのピンクやオレンジの背表紙、入試の勉強に使った声楽や楽典の教本――そして、ベートーヴェンのバガテル。
するりと引き抜くと、ヘンレ版特有の紙の手触りがした。絶対に指を傷つけない柔らかい紙。ゆっくりと開くと、そこにあった書き込みは今見るものとはまったく違う筆跡だった。
協奏曲だけで、今日の演奏会は構成されているわけではなかった。プログラムの中心にベートーヴェンを据え、前半とアンコールにはベートーヴェンの小品が演奏される。バガテルはその中にあって、そういえば中学生か小学生の高学年の頃にコンクールでやったのでは、と思い出したのだ。
いかにも古典派らしいリズムと和声のはっきりとした音の並びを見ていると、たぶん中学一年生のときだったような気がしてきた。
なんでこんなに覚えてないんだろう、と内心首をひねっていると、
「三谷」
入り口で声がする。顔を上げるとみそらがいて、髪はめずらしく一つに結んでいた。
「今からここにお布団持ってくるから手伝ってって」
言ったのは母か祖母だろう。みそらは楽譜に気づくと、中に入ってきた。ピアノ一台がない部屋にみそらと彼女の荷物があるだけで、まるで部屋の中がふわりと明るく、光が灯るような感覚を覚える。
みそらはじっと楽譜を数秒見て、「バガテルだ」とつぶやいた。
「これ、今日のプログラムにあったやつ?」
「うん」
「やってたんだ。――残念」
何が、と言いかけてすぐに気づく。ここに楽器があれば弾いて欲しいって言えたのに、ということだろう。みそらはよく自分に弾いて欲しいと言ってくる。それは友人、独奏者とその伴奏者、そしてそれをひっくるめた恋人という関係になった今でも変わらない。
高校三年生の夏、自分たちはそうとは知らずに、同じ演奏会にいた。同じ音楽大学の、特待生による演奏会。そこで出会った音に惚れ込んで、ピアノ、声楽と専攻は違えど、同じ大学を目指した。――その夏から、もう、まる四年も経つ。今の時間は、彼らにとって学生生活最後の夏だった。
今日の演奏会は、その夏休みのイベントのうちの一つだった。何度か来日しているピアニストの演奏会が三谷の地元で開催され、みそらもそれに興味を示した。女性、かつ病気を抱えての演奏活動という点に強く惹かれたようだった。
演奏中はまったく病気の影は感じられなかった。深い思慮を感じさせる音、そして自分の確固たる世界。研ぎ澄まされていく音には憧れを感じずにはいられなかった。終演後、これまでは行われていたサイン会がなかったことで病気のことを思い出したくらいだった。
どれほどの恐怖か――ふと思う。自分だって楽器をやめるかどうかは迷った。就職を機にやめようとも思っていた。
楽譜を横から覗き込むみそらの細い首筋にふれる。あたたかい温度が伝わると世界にまた色が灯ったようだった。
「どうしたの?」
くすぐったいのか、みそらは少し微笑んで見上げてくる。
「結んでるのめずらしいなと思って」
「そうだっけ。あっちのマンションでも結んでるよ」
じゃあやっぱりここにいるからめずらしく映るのだろうか。そんなことを思いながら唇でかすかにふれる。みそらの肌から湿度のある花のような香りがすると、自分の中の何かがほぐれて何かがまた覚醒するようだった。
――やめると決めていたのを翻したのは、みそらのおかげでもあった。二人ともそれぞれに就職先は決まっていて、来年の春からは普通の社会人だ。その中にあっても、自分なりの音楽を続けていく――そう思えたのは彼女の歌があったからだったように思う。
みそらちゃん、という声が聞こえて、温度がふいに離れる。みそらは「はい」とソプラノらしい上向きの声で答えた。
「フローリングにそのままお布団を敷くのもなんだから、これを使ったらどうかしら」
廊下の向こうから祖母の足音と声がする。みそらが部屋の入り口に歩いていくと、ちょうど祖母が顔を出した。仕事をやめたらぜったいに染めない、と決めていたらしいロマンスグレーの豊かな髪が目をひく。
「重くなかったですか?」
「大丈夫よ、薄くて。綿なの」
祖母が抱えているものになんだか見覚えがあるなと思っていると、さらに母が奥からやってきた。
「あ、それ、
「えっ」
思わず声が出た。みそらが「わぁ」と嬉しそうな声を上げた。
「まだ取ってあるんですね。使って良いんですか」
「夏だし、お布団の下といっても綿がいいでしょう。懐かしいわあ、昔はよくこれに寝転んだ夕季に絵本の読み聞かせをしてたのよ」
「そういえばうちにも同じ絵本がいくつかありましたよ。『はじめてのおつかい』とか『おしいれのぼうけん』とか、あとは『こんとあき』も『きょだいな きょだいな』も」
三人で楽しそうに話す女性陣を見ながら、そういえば父親があんまり喋っていなかったことを思い出す。なるほどこういうことか、と思いながら、それでもみそらを見ているとやっぱり色が灯ったような気分になったのに気づいて、まあいいか、と三谷は息をついた。
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