第2話

 面会時間ギリギリまで病院で粘り、再びタクシーを拾って例のマンションに戻った。コンビニで買った各種酒類と俺の好きなつまみとスナック菓子、あと軽食をエコバッグに詰めて。


 腰を抜かしていた担当者くんのポケットからくすねた合鍵を使って建物の中に入る。エレベーターに乗って15階、そのまままっすぐ例の部屋へ。15階には借り手も買い手も付かないというのは本当らしい。誰もいない廊下を照らすLEDの灯りだけがひどく虚しい。

 扉を開ける。土足のままで中に入る。洋室洋室和室は無視、まっすぐリビングへ。


 カーテンがかかっていない大きな窓からは月明かりが差し込んでおり、部屋の中は思ったよりも明るかった。リビングのど真ん中に、それは座っていた。


 女の子かなと思ったけど良く見たら男の子だった。長い黒髪が抜けるように白い裸体を覆っている。首あるじゃん、と思う。


「昼間はどうも」

 挨拶する俺を睨む目が怖い。白目がほとんどない大きな大きな真っ黒い目。吸い込まれそうだ。

「酒買ってきた。あとつまみ。これ最近俺ハマってる菓子なんだけど、どう?」

 床に置いた缶ビールがぐしゃりと潰れる。日本酒とウィスキーの瓶が割れる。スナック菓子の袋は八つ裂きになり、中身と割れた瓶の欠片がものすごい勢いで俺の方に飛んできた。あぶねえ。

 んー。お稚児さん、という言葉が脳に浮かんだ。たぶんそうだ。この辺りで強い力を持っていた殿様か……坊主か……なんかそういうのに寵愛されていたお稚児さん。首塚を作られるってことは主人が没落したあとになんかしたんだろうなぁ。ひとりで敵のところにカチコミしたとか。そんで死んでからも暴れたんだろうな。首はここで、体の残りはどこに埋められたのだろう。ちゃんと供養されてるといいんだけど。

「5年前にさ、管理会社が変わったでしょ」

 床に豆腐と醤油とサラダを並べながら訊く。大きな目が僅かに眇められる。ビンゴ。ていうかさっき不動産事務所で見た書類にそんなようなことが書かれていたんだけど。

「前の管理会社は最初からこの部屋誰にも貸さなかったみたいね。首塚……もう首なくなっちゃってるみたいだから何塚って呼ぶのが正しいのか分からんけど、とにかくそれの真上の最上階だから、神社扱いしてさ」

 6年前までは15階のほかの部屋にもふつうに人が暮らしていた。角部屋の面倒は前の管理会社の人間が見ていた。豆腐がパッケージごとぐちゃりと潰れて、中の白い部分が消える。醤油も空になる。サラダも同様。


 兄が口にした●●というのは、分かりやすくいうと「悪い神様」というような意味合いの言葉だ。俺にしてみれば神様に良いも悪いもない気がするけど、兄はそうやって自分流の言い回しを作って表現を使い分けてる。自分と他人の身を守るために。

 でも俺は別にそういうの気にしない。兄ほど人間を守ることに執着ないし。というか首塚掘り返して中身捨てたやつがまず悪いし。


「一応これは交渉なんだけど」

 兄の財布から抜き取ってきた知人の名刺を床に滑らせる。長い髪のあいだから伸びた真っ白い華奢な腕、その先の長い長い蛇のような指が四角い紙を捕まえる。

「今の管理会社はそこ。そこにある名前はその中でもまあまあ偉いやつ」

 日本酒をもう一本。今度は割られない。

「担当者くんのことは勘弁してあげてよ。その代わり管理会社の社長の名前教えるからさ」

 目が。俺を見る。値踏みするような目。ああたしかにもうこの子は人間ではないのだなと思う。命を奪われ首を落とされたところで既にだったのに、弔いの場所を蹂躙されたことで完全にになった。


 怒れる美しい神様。


「稟ちゃんのことは見逃して。左手許してあげて。あの人は優しい人なんだよ」

 俺は。俺は歩くお守りとか言われて、俺が近付くと大抵の『悪いもの』は霧散して消えるとか言われている人間で、兄みたいに見えるわけじゃないのに消すことだけはできるなんて便利なんだかなんなんだかと良く言われて、たしかにそれはそうなんだけど、内緒の話をすると一部の『存在』を視認することはできる。俺に見えるのは、俺を見て霧散しないやつ。つまり、

「あいつらが稟ちゃんの指示を聞かなかったら、つまりここをあなたの場所にして、そして首を探す努力を怠ったら、あいつらを始末して終わらせればいい。その時には俺も力を貸すよ」

 真っ白い裸体が、ぬるりと立ち上がった。そんなに大柄じゃない。平たい胸、痩せぎすの腕と脚、部屋中を埋め尽くしそうな黒髪の海。

「市岡氷差ヒサシ、といいます」

 名前を差し出す。これは賭けだ。

 俺の名を口の中で転がした悪しき神が、やがて小首を傾げて微笑んだ。厳しい冬を乗り越え春を迎えた蕾が綻び花開く時のような微笑みだった。その口もとがゆっくりと耳まで裂け、研ぎ澄まされた刃にも似た歯が剥き出しになる。


 俺はお守り。神を見ることができるお守り。神を見て、対話をし、交渉し、決裂した場合には神を殺すことができるお守り、市岡稟市の守り刀。


 さあ、どう出る。

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