15階角部屋

大塚

第1話

 あ゛、という小さな声と、何かが砕ける嫌な音がした。火の点いた煙草を挟んでいた兄の左手の人差し指と中指が、正しくない方向に捻じ曲げられていた。


 スリッパの足元に煙草がぼとりと落ちる。これはいけない。ヤバいやつだ。


 兄は悲鳴を上げない。泣きもしない。昔は良く泣き良く叫ぶ人だったのに。


 知り合いの不動産屋から扱ってる物件の中にヤバめの事故物件があるから見に来てくれないかと頼まれたのが発端だった。駅徒歩5分3LDK、オートロック、バストイレ別、リビングダイニングには対面式キッチン付きという条件だけならかなりの良物件。15階建の建物の最上階の角部屋がそのヤバ部屋なのだという。もう5年入居者がなく、たまに事故物件歓迎系の人間が入っても3日で出て行ってしまい、その余波で同じフロアの部屋も空きがちで知人としてはかなり困っているのだという。で、俺と兄がふたりして現場を覗きに行くことになったのだが。

りんちゃんマジ弁護以外の仕事好きだよね」

「俺は人助けが大好きな善良な人間なんでねぇ。困ってる人のことを見放せないのよ」

 なんて軽口を叩いていたのが僅か30分ほど前のこと。玄関から中に入り、洋室ふたつ、浴室と洗面所、トイレ、和室、リビングダイニング&キッチンと見て周り、バルコニーに出たところで異変が起きた。スーツのポケットから煙草を取り出した兄が僅かに顔を顰めたのは、見えた。何かがいるのだと見えない俺にも分かった。だが兄はその何かの存在を無視するように煙草に火を点けた。そうしたら、指が折れた。

 ひぃ、と小さく悲鳴を上げたのは俺たちから少し離れた場所に立つこの部屋の担当者だ。知人本人は路駐したクルマの中にいる。入りたくないとかって言って。

「稟ちゃん!」

「……土地、が、駄目、い゛……」

 煙草とは関係ない薬指と小指がぎしぎしと軋んでいる。まずい。

「中、中入る!?」

「もう入ってる、あ゛、開けたが、ら゛」

「うえ、入れちゃったの俺たち!? あ、そうか、今まで引っ越してきた人たちもみんなそうなのか、バルコニーに出ようとして、」

「ゔぇ」

 兄の口がぽかりと開き、中から何か……黒く濁った唾液のようなものが吐き出される。嘘だろ。まだなんもしてねえぞこっちは、話が通じないにもほどがある。言いたいことがあるなら対話しろ!

「成立しない、は、」

 このかた?

「か……」

 分かった。言いたいことは分かった。俺は俺より15センチほど小柄な兄の両脇に手を突っ込み、半ば引きずるようにその体を部屋の中に連れ戻す。窓も閉めたがまあ無意味だろう。

「出ましょ!」

 ガタガタと震えながらその場に座り込む担当者の尻を蹴っ飛ばし、兄を背負って問題の部屋を飛び出した。玄関のドアを閉じた瞬間兄の左手の指が全部折れた。利き手だぞ。


 どうでしたか大丈夫でしたかという知人の頭を無言で二発張り、すぐにクルマを出させた。取り敢えずこの場を離れないと。

「病院行った方がいいんじゃ」

 担当者くんのもっともな台詞に肯きつつも兄は真っ青な顔のまま、

「地図」

 と呻いた。

「このマンションが建てられる前の、地図」

「事務所に戻ればありますが……」

「戻って、ください」

「でも指」

「稟ちゃんが戻れっつってんだから戻るのが先ね。ほら早く!」

 問題のマンションからだいぶ離れた場所にある不動産事務所に戻り、入り口に本日休業の札を出し、知人と担当者くんが両腕いっぱいに地図を持ってやって来た。パイプ椅子に半分倒れるように座った兄は右手で煙草を吸い、左手に煙を吹きかけている。肌の色がひどい。青白いを通り越して紫色だ。このまま放っておいたら黒く変色し、硬直し、手首からぼろりと落ちてしまうだろう。

「マンションが建てられたのは12年前で……」

「その前は」

「一軒家がありました」

「その前」

「その前も一軒家です」

「どのペースで建て直されている? 持ち主は?」

「それは……うちの会社では管理していない範囲の話になりますので……」

 あーもう、めんどくさいな。兄は優しいから怒らないけど、俺はこういう面倒なやり取りすんごい苦手。

「最初の最初のいちばん初めに何があったかって聞いてんの。稟ちゃんの手が腐り切る前に言いな」

 兄は事務所中が埋まるように紫煙を吐き続けている。マンションからそいつが追いかけてきてもここが分からないように、会話が聞こえないように。


 知人と担当者くんがあちこちに電話をかけまくり、俺たちもネットの噂話なんかをスマホで検索した結果、嘗てそこには首塚があったという証言を得ることができた。1時間かかった。


 兄が大きく嘆息した。

「首はなかった」

「バルコニーで見たやつ? 首塚潰して建物つくったのに首がなかったの?」

「一軒家が建ってるあいだは良かったんだろう。その家に住んでいる人たちが供養していたから。でも、マンションを建てる時に」

「掘り返して捨てたのかー。最悪だなー」

「掘り返すにしても俺みたいな人間を呼ぶべきだった。12年前なら、まだ」

 間に合ったのに、と兄が肩を落とす。そうか、もう駄目なのか。

「首塚に埋められていたのは……人間の首ではなかったってことですか?」

 担当者くんが尋ねる。兄は弱々しく首を横に振る。

「人間だった」

「でも……市岡いちおかさんのその手……」

「やり方を間違えたから、人間じゃなくなった。あれはもう●●だ。俺の手には負えない」

 そんな、と顔を見合わせる知人と担当者くんに俺はひょいと肩をすくめて見せた。

「ということで俺たちはここまでー。稟ちゃん病院連れてくから行くね」

「そんな! あの部屋はどうしたらいいんだよ!?」

 縋り付くような知人の声に、最早息絶え絶えになりながら兄は呟く。

「完全に閉じて、中に神棚を。定期的に挨拶して機嫌を伺え。できれば首のその後も追え。見付かれば、或いは」

 見付かるはずないだろうなと俺は思う。兄もたぶんそう思ってる。ていうか声も出てないし顔色が悪すぎる。そろそろ連れ出さなきゃ。

「じゃ、頑張って」

「市岡! ヒサシくんも、そんな無責任な……」

「むせきにんん?」

 兄を支えて立つ俺の背にぶつけられた知人の叫び声に、思わず振り返った。

「どこが。原因が何かまでは見付けたじゃん」

「は、祓うところまでが仕事だろ!?」

「稟ちゃん言ったの聞いてなかったの。あれは●●。これ以上深く関わったら稟ちゃんが死ぬ」

「だったらヒサシ、おまえが……おまえは『歩くお守り』なんだろ? おまえが関わると悪いものは消滅するって聞いて一緒に呼んだんだからな!!」

 はー。もうやだなーこういうやつ。自分に都合良いとこしか耳に入ってないんだから。勘弁してよぶん殴りたい。

 ぐったりと全身から力が抜け、ほとんど意識を失っている兄を小脇に抱え、俺は知人の耳にきちんと届くように大きく舌打ちした。

「そうだよ俺は歩くお守り。今日も俺がくっついてなかったら稟ちゃんの左手だけじゃ済まなかった、全身持ってかれるか、なんかもっと最悪なことになってた。あんたも、担当のにいちゃんも無事じゃ済まなかったよ。それだけでも感謝しなよ」

「でも……」

 言い募る。しつこい。殴りてえ。

「稟ちゃんの言う通りにして、あの部屋とフロアは諦めな。それでも何かが起きるようなら話聞いてやるよ」

 言い捨てて事務所を出、タクシーを捕まえて最寄りの病院に行った。兄はそのまま入院した。

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