読まずに食べるのは失礼だと思います

「読まずに食べるのは失礼だと思います」


 筒井つづり嬢は立腹していた。その相貌そうぼうは今のいままで読んでいた絵本をにらんでいる。睨んでいる、とは表現したものの彼女の瞳はいつものように眠たげであるが、恐らく状況的に睨んでいると推察できる。

 二人きりのときに彼女が敬語で話すのは珍しい。半分は独り言なのかもしれない。

「それはヤギの話ですね。白ヤギさんと黒ヤギさんの」

 自分は彼女を刺激しないよう慎重に言葉を選んだ。結果的に当たり障りのない事実の羅列でしかなくなっている。

 つづり嬢が読んでいたのは国民的童謡を恐れ多くも絵本にした1冊らしい。

 あれに絵本にするほどの物語性があっただろうか、と記憶を探る。手紙が結果として読まれなかったことはわかる。しかし絵本の分厚さからしてどう見ても10ページ以上はあった。まぁおそらくは歌詞の内容をドラマ仕立てにしてページ数を稼いでいるのだろう。

「これは有名なお話なの?」

「えぇ、まぁ日本国民につきまして、概ね皆さんご存知かと」

「なら話が早いわ」

 心なしか、つづり嬢の話す速度も上がる。

「手紙という連絡手段が普及している以上、それが市民権を得て社会的な基盤の一部を成しているということでしょう。それを読まずに食べるというのはコミュニケーションを拒絶した失礼な振る舞いではないでしょうか。着信拒否やブロックと呼ばれる行為に当たります」

 普段より多少、少し、ちょっと、ほんの5ミリ、感じられなくもない程度に感情がこもったつづり嬢の言葉に、ひとまず自分はうんうんとうなずいて肯定を示す。

 ……つづり嬢、ブロックされたことあるの?

 思わず問題のありそうな話題を振りそうになったが、自分は彼女を刺激しないよう慎重に言葉を選んだ。

「確かにそうだね」

 腹を立てた彼女を前に自分ができること。それは肯定しかありえないのである。自分は心からの同意を示した。

 つづり嬢の瞳が絵本からこちらへ流れる。

 眠たげな瞳の奥から探るような光が灯っていた。

(本当にそう思っているの?)

(面倒だからとから返事しているんじゃない?)

 彼女は何も言っていない。だがそんな疑いをかけられている気がして、背中がしっとりと汗で濡れる。

 自分が求められているものは本当に同意なのだろうか。もしかすると、公平な立ち位置からのディスカッションを求められている可能性もある。

 ディスカッションするのであれば、自分は彼女と対立的な立場を取らなければならない。そうしなければディスカッションが始まらないのだ。そして、つづり嬢との会話のこれまでの傾向から察して……。

「でも確か、黒ヤギさんはお返事を出したはずだよ。さっきの手紙はなんだったのかと。内容を確認する意思があるということは、意図的にブロックしたわけではないと言えるんじゃないかな」

 自分は対立する方向へ舵を取った。

 つづり嬢の目つきが少し鋭さを増した、気がした。彼女はどこをどう取っても鋭さとは縁遠い特徴しか持ち得ていないため、増すような鋭さがどこにあるのか、という別のディスカッションが脳内で始まりそうだったのでそこは自重する。

「あなたが私に、例えば次回の委員会の詳細について相談するメールを送ったとして」

 つづり嬢は本を閉じて脇によける。

「私から『さっきのメールの要件は何ですか?』と返信が来たらどう感じる?」

 つづり嬢はこてり、と首を傾げた。

 想像する。自分はつづり嬢へメールを送る。図書委員会に向けての打ち合わせであれば相当な長文だろう。夜も遅い時間帯かもしれない。つづり嬢がちょうどシャワーを浴び終えて桜色に火照った肌をしっとりと濡らしているかもしれないそのタイミングでメールを送る。きっと自分は指先まで汗をかいていただろう。そわそわしながら返信を待つ。10分か、20分かして返信が届く。飛びつくようにメールを開いて、そこに書かれた返信は一つ。『さっきのメールの要件は何ですか?』


 ぐあぁっ!? 胸がキリキリと悲鳴を上げた。

「あぁ読んでいないのかな……とか、あまりにも要領を得ない自分のメールを叱責しっせきされているのかな、とか、もっと短く書けとかこんな時間にこんなメール送るなんて正気を疑うわね死んだほうがましではないかしらとかそういう感じのことを言われているのでは……」

「それは被害妄想が走りすぎているけれど」

 心拍数が170程度まで上がっただろう自分のことを片手で制しつつ、つづり嬢はふわりと前髪を揺らした。

「どう判断してもネガティブな予測しかできないでしょう。であればその返信が失礼であったことは確定的。読まずに食べてしまったヤギさんはまず謝罪の意を表明するべきです。可能であれば対面で、菓子折りを持参してです」

 そこまで礼に厚いヤギというのも見ものではあるが、自分はディスカッションの立場上まだヤギさんをかばわなければならない。それができなければ、読まずに食べてしまった国民的ヤギといっても過言ではないヤギさんは、つづり嬢の無慈悲な断罪によって永遠に彼女の中で『失礼ヤギ』の汚名を着せられることになるだろう。

「でも」

「……でも?」

 挑むような目線から逃げるように一度顔をそらし、先ほどまで読んでいたタップダンスの教則本に目を戻した。開いたままだったそれの表紙をゆっくりと閉じていくと、右足を軽く上げた男性のイラストが徐々に見えなくなり、ただの紙の重なりになった。

 ただの時間稼ぎではあったが、よし、ならば、ダンスしてみようではないか、と不思議と透明な心のうちから決意がみなぎってきた。


「でも、ヤギなんだ。つづり嬢」


 自分は核心を突いた。

 この話の前提として、本来はもっと先に、深く確認すべきだった。しかし、あまりにもまっとうに擬人化されたうえで議論がスタートされていたために、あえて触れようとしていなかったのだ。

 前提を覆すというのはディスカッションにおける禁じ手といえるだろう。しかし、ヤギさんのヤギせいについては明確な提示があったわけでなかった。

 そう、この前提は、まだ、挽回できる!

「たとえ手紙を書けるほどの知性を得たとしてもやはりヤギなんだ。動物的な本能をそこまで抑えられているとは思えない。 手紙を食べてしまったのもいたしかたないと言えないだろうか? そして、手紙を送ったのもまたヤギ。当然同じ条件下であるために与えられた制約も理解しているはずだ。つまり、このヤギさんは要件を尋ねる返信を受け取ったとき、相手のヤギさんが手紙を食べてしまったことも当然のように理解できるし、許せるだろう。よって、ヤギさんが手紙を読まずに食べたことは、失礼にあたらない!」

 突きつけるようにに言い切ると、つづり嬢はふっと息を吐いて肩の力を抜いた。

「さすがね。私の負けよ」

 こうしてヤギさんの尊厳は守られた……。


 そもそもの話、白ヤギさんは確かに読まずに食べたが、黒ヤギさんもその返信を読まずに食べたという、無限ループが暗示された童謡である。ヤギさんのヤギ性をよりヤギヤギしく定義すれば、失礼などと考える知能すらそもそもないと言っても過言ではないレベルだ。

  落ちるところに落ちた、という結論である。


「私もヤギだったら良かったのに」

 その端で小さく漏れた独白を自分は聞こえなかったことにした。やはり何かトラウマめいたものがあるのだろう。しかし、彼女がもしヤギであったならこうして二人の時間を過ごすことはなかっただろうから、自分は気づかれないようにほぅと安堵あんどの息を漏らしたのであった。

 つづり嬢と永遠に手紙を送り合うというのも、悪くはないのかもしれないけれど。

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