黒き鬼

北大路 美葉

黒き鬼

 未明より暁へと変はる境ひ目を跨ぎ越し、ある黒き鬼、山を下りて里へとさ迷ひ来れり。

 金砕棒かなさいぼうを携へしその黒々きからだ、夜闇には墨滴すみの如く溶け入りしが、東雲しののめの白さにはおほく浮かび上りたり。

 鬼は腹を減らし、足取りは鈍く、白目は血走り、その肌色は殊更に黒ずみ、益々醜き顔貌を為せり。然れど担ぎし金棒を決して手放さず、肩に喰ひ込みたるままに持てり。

 里の人々、その奇異なる姿を恐れ、家より出でず擬乎ぢつと鬼の行く先を見詰むばかりなり。

 畑にか細き大根やら芋やらのるを横目に、鬼は田のあぜを歩き橋を渡り、村落の外れの寺へと辿り着きたり。

 寺には誰も住まず、手入れも為されず、向拝柱の傾きたるはあたかも化物寺の如し。

 黒き鬼、山門をくぐり寺庭に伸び放題のすすきを掻き分け、鐘楼へと踏み込みたり。鐘撞堂かねつきどうこそ荒れ傾きてゐしが、吊り下がれる梵鐘は風にも揺れず堂々と座して在りたり。

 黒き鬼、己の背丈よりも僅かに高き鐘楼の横に立ち、己の背丈よりも僅かに短き金砕棒を肩より下ろして一振りしたる。両のかひなにて高々と金棒を掲げ、未だ低く差す朝日の白き光にその黒き体躯を晒しければ、よりその醜き姿の際立ちたる。

 金棒を両手に握り締め、鬼、力任せに梵鐘を打てり。鐘の音は割れることなく、静寂しじまに染み入るかの如きに鳴り渡りぬ。

 鬼、其の音を聴き、固く瞼を閉じつつ、目より涙を流しけり。口より食み出したる己の牙を恥じ、続け様に何度も鐘を打つなり。

 黒き鬼の打ち鳴らしたる鐘の音は里に、山々に、その向こうの海に、遠く遠く迄響き、其々それぞれを暮らす人の耳にあまねく届くなり。

 人々、鬼の打つ鐘とは知らず、目を閉じ働く手を止めて合掌し、其の音に己が心をひたしたると云へり。

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黒き鬼 北大路 美葉 @s_bergman

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