長電話してるから酒場へ
おい帰ったぞ。
男の呼びかけに返事はない。不満げな顔をしながら荷物を床に置きコートをハンガーに掛ける。妻が留守にしているわけではないことを夫は分かっている。奥から電話をしている妻のつくった声が聞こえるからだ。
そうなんですか。それはすごいですね―—いやいやお上手言わないで下さいよ。オホホホホ。近頃はずっとこんな調子。電話台の横にお気に入りの籐いすを置いて長電話する気満々である。最近は妻が相手にしてくれないものだから早く帰った日は夕飯の前に外で一杯引っかけてくることにしている。歩きながら煙草を一本吸えば着くほどの距離のところに数か月前、酒場ができたのだ。そこの主人はここはバーで俺はマスターだと言って聞かないが。この店も前はあいつと二人で来たのになあ。最近は二人で出かけることも少なくなった。ここのキッシュ気に入ったって言ってたのに。煙草を取り出すまでもなくそんな思い出に浸っていると白塗りの壁に木製のドアというつくりの店が見えてきた。ここは早い時間からやってるというのもいいところだ。昼間から酒飲みが屯しているとも言える。
カランカラン
どうも、といういつもの野太い声が響いてこない。わざとらしくもう一回扉を揺らして音を鳴らしてみても反応は無い。そんな男の様子に気づいたのか、カウンターの端に座っていた老人が教えてくれた。いま、マスター、電話中。声は出さずとも口の動きで伝わった。ああ電話中か、そりゃ悪いことしたな。まあ何呑むかでも決めるか。そうは言っても大体はウィスキーになるのだが。ウィスキーでいいのかい。そう訊ねてきたのはやっぱりマスターではなくさっきの老人で勝手にカウンターの中に入りボトルを出して氷を入れて注いでくれた。戸惑いながらも礼を言って受けとる。まあ深いことは考えずに乾杯。どうやら老人は既に3杯目らしいジョッキを一緒に掲げてくれた。ああ、うめえ酒ってのは誰が入れてもうめえもんだな。これじゃマスターも店取られちまうよ。
マスターの電話は終わる気配がない。マスターの話が面白いというのもこの酒場に来る理由の一つなんだがどうやら今日はそうもいかないようだ。最近はこうやって長話をすることが多くなったんだよねえ。なんか深刻な話とかじゃないといいんだけど。老人が耳打ちしてくる。頷いたり相づちを打ったりしながら話をしているとウィスキーもなくなった。壁に掛かった時計を見るとちょうどいい頃だ。今から帰れば後は皿を並べるだけといった感じだろう。それくらいはしなきゃな。全部準備してもらいっぱなしってのもよくない。席を立つとマスターの電話が終わったところだったから、ウィスキーごちそうさま。そう言ってお代を渡した。
ただいま。
ごめんなさいね。いま電話が終わったとこなの。すぐに準備するわ。
女が上機嫌でキッチンをせわしなく行き来している。
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