出港5分前

 最高に空が青い。男はテトラポッドの上に立っている。日はもう昇りきって水面が煌めいている。カモメも何も飛んでいない海はただ広くて、その大らかさと頼りなさは海も同様だった。そんな海を眺めている男の目は遠くを力強くじっと見つめているようにも、とくに何も決めずぼおっとしているようにも見えた。でも男の正面に回った者がもし居たら男の不安げな表情を目の当たりにしただろう。無論、そうされたくないゆえに男はこちらに背を向けているのだが。

 そこに女が近づいてきた。そのまま寝間着で出てきたような男とは対照的に女の格好はいかにも余所行きといった雰囲気だった。キャリーケースのキャスターが港のコンクリートに響く。その音が男の注意を引いた。それでも後ろを振り返ることはしなかった。女も別に自分の方を振り返るようには促さなかった。左手の腕時計を一瞬見たあとそのまま男の右肩を叩いた。男の沈黙を容認だと受け取った女は口を開いた。


「ねえ。わたし今日ここを出るの」


 女は横顔にそう語りかけた。男の驚かない様子を見るとおそらくあらかじめ事情は知っていたのだろう。この辺りには大学が無い。特に芸術学校となると本土の方でも隣の県まで出て行かないといけない。ちょうど母の遠い親戚が近くに住んでいるというので、そこに住むことになっている。女からすれば、ほぼ赤の他人だったが。女は言葉を続けることをせず男の横顔をじっと見つめた。数秒後たまりかねた男は女の方を向いた。急に振り向かれた女は驚いたが、思ったより近くにあった女の顔に男の方が驚いていた。

 男は船の出発は何時かというような野暮なことは聞かなかった。もともと朝に一便、夕方に一便しかないからその時刻など覚えていたが、それを抜きにしても尋ねる気は無かった。だってそれを訊いてしまうと出発が動かぬ事実になってしまいそうだったから。いよいよ現実のものになってしまいそうだったから。男は何を話せばよいのか分からなくなった。昨晩、布団の中で考えた言葉など忘れてしまった。それは女も同じだった。必死に思い出そうとしてもなにも思い出せないし目の前の男を見ると今までのことが思い出された。あいにくこれからの話をする気にはならなかった。

 その間も穏やかな波は音を響かせ、寄せては引いてを繰り返していた。女はもう一度袖をめくって時計を見た。小さな文字盤の長針は出向の時刻5分前を示していた。女は船着き場の方に体を向けた。男はその様子を悟った。女は何も言わず歩いていく。男は呼び止めてほしそうなその背中を無視することはしなかった。それでも自分が引き留めてしまうのは嫌だった。女と男の間で短い言葉が交わされた。


「ありがとう」

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