衝動を投げる

 パリン


 だからガラス製の食器は止めようって言ったのに。お母さんはプラスチックのグラスやお皿なんかを嫌う。それは単純に見た目が安っぽいから嫌だとか食器はちゃんとしたものを使いたいとかいう理由からなのだろうか。それとも自分の母親が病気に侵されてしまったことを認めたくないのだろうか。病気によって日常が変化することを拒否しているのだろうか。そういった変化が目に見える形になるのが嫌なのだろうか。


 ドンッ

 ドンッ


 こっちは僕の水筒と母の水筒が床に投げつけられた音。下の部屋の人は先月引っ越したから音が天井に響いて迷惑をかけてしまうという心配はしなくていいけれど、そもそも引っ越した理由がこういう我が家の騒音かもしれない。


 母の母、つまり僕の祖母は一昨年からこの病気が進行してきた。ちゃんとした病名はついていないのか、それとも僕が忘れただけかもしれないけど、まあ情緒が不安定になると周りの人間が全部敵に見えるらしく、それで攻撃的になる。もう七十を過ぎた祖母に人を殴ったり蹴ったりするような元気は残っていないから、その代わり自分の近くにあるものを投げつけて感情を露わにする。介護も必要になってきたし施設に入れる案も考えたらしいけど、こういう発作が酷ければ毎日、よくて週一で起こるとなるとどこも受け入れるのは厳しいという話だ。ちなみにこれは投げつけることのできるものが祖母の周りからなくなれば終わる。だから物を隠しておいたり高い所にしまったりすればいくらか防げると思うのだけど母はそれもやりたがらない。やっぱりガラス製の食器や陶器に固執するのと同じ理由からだろうか。


 ガタッ


 これは疲れ果てた祖母がいすにへたり込む音。いすは祖母の体重で後ろに少しだけずれた。これで終了。たいてい祖母はここから3時間くらい眠る。この間に周りにいる人で片づけを行うのが定番の流れだ。だから今は僕が水筒を拾って壁から落ちたカレンダーを掛けなおし、母は割れたグラスの欠片を拾い集め、ほうきで床を掃いている。掃除機はうるさいので使えない。祖母を起こしてしまうかもしれないから。


 こういう発作にも家族は慣れてきたらから僕も母も驚きはしないし止めに入ることもしない。最初のうちは止めたけれど結局は最後まで行かないと収まらないし僕たちが怪我をしそうになったことだってある。普段はおとなしく上品な淑女という言葉がぴったりな祖母だけど急に何かに取り憑かれたようになってしまう。そのときの表情はかたく強張っていて聞いたことのない声音で叫ぶ。発作が酷くなったときに母と父と僕でこっそり病院に行ったことがある。なんでこうなってしまったんでしょうか、と母が怪訝そうに尋ねたとき医者は普段の生活によるス―—と言ってそこで口をつぐんだ。


 祖母は穏やかな顔で眠っている。

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