サックスなんて柄じゃない
繁華街なんかでは流しはさほどめずらしいものではない。たいていがギター片手に弾き語り。自分で作ったと思われる正解がよく分からない歌か大幅にアレンジを効かせた流行の歌唱曲。夢を追い求めている青年か夢を追い求めたまま年を食ってしまったようなおじいさんであることが多い。女性も見かけることには見かけるが。しかしサックスの流しというのは珍しい。ひげをぼうぼうに生やした五十過ぎの男が石畳の上に座り、交差点の角でサックスを奏でている。到底、曲にはなっておらず間の抜けた音が鳴っているだけだが。その音は病院に入っていく救急車のサイレンにかき消されてしまう。
おじいさん、なんでまたサックスなんてハイカラなもの吹いてるんだい。
これは親父のもんなんだ。
くぐもった声の返事だった。
中学を卒業した後、父親はさっさと働いて金を落とせと言った。父親はトラックの運転手で家にいないことも多かった。母親は働かなくていいから高校に行きなさいと言った。勉強は得意ではなかったが人並みにはできたから行こうと思えばそれなりの高校には行けただろうが父は働けと言った。
もちろん理由はあった。母は心臓が弱く入退院を繰り返していた。費用もバカにならない。父はそれを一緒に稼げと言いたかったのだ。それに対して母は自分のことなどいいから高校に行ってほしいようだった。結局は定時制高校に通いながら昼は工事現場で働くことになった。父のツテであっさりと仕事先は決まった。
それからは朝早くから現場に出て木材を担いだりリヤカーを押す日々だった。夕方から高校に行き夜遅く家に帰った。授業は眠くて仕方がなかったが、そんなときにはやさしく微笑む母の顔が思い浮かんだ。誰一人としていない家は夏は蒸し風呂のように暑く冬は凍えるほど寒かった。
定時制高校を何とか卒業できるかというころ母はついに息を引き取った。妻のやつれてはいるものの安らかな笑みを目にした父も葬式が終わった次の日に交通事故で死んだ。睡眠不足でガードレールにぶつかり崖から落下したそうだ。
つましい暮らしをしていた両親に遺品と呼べるものは少なかった。たいていの金目のものはとっくに姿を消していた。
ただ一つ押入れの中に薄い布団といっしょに押し込められていた箱があった。それはサックスのケースだった。音楽の授業が嫌だと見舞いのときに母にこぼしたとき、お父さんの血が入っているのにねえと揶揄われたことを思い出した。
二十歳にもなっていないガキにできる仕事なんて限られていたから、家はもっとボロいアパートの6畳間に移り住んだ。高校を出ても仕事は変わらずお金はいくら稼いでも足りなかった。
無理が祟ったのか四十になった年に母と同じ病気になった。手術すれば治るとのことだったが金など無かった。あったのは数着の服と家とサックスだけだった。吹けないなりにサックスの手入れは怠らなかったから状態は良く、売ったらそれなりの金になると質屋は言った。しかし治るかも分からない病気のためにこれを売るのは嫌だった。結局手術はしないものの通院ということになった。その金は家を売った金だった。
手元には服と軋んだ体とサックスだけ。やることなんて決まっていた。
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