死後の世界の人口

 世界の人口は今のところ増え続けていて特に発展途上国での増加率が上昇している、と地理の授業で習った。世界史の授業ではキリスト教の考え方についてちらっと解説があった。イエス復活のとき死んだ人々もこの世界によみがえるという。そっかあ。よみがえるのか。じゃあ去年がんで亡くなった祖母にも一度も会わずに死んでしまった母方の祖父にも会えるのかな。

 そう考えたあと気味が悪くなった。だって今生きている人の数よりも今までに死んだ人の数の方が圧倒的に多い。そんな人たちが全員こっちの生きている人の世界に来たら大変なことになるのではないか。というか、そんな大量の人々が生活している死語の世界というのはどんなものだろうか。今も都市部だと人であふれかえっていて息苦しいほどなのに。地球がいくつあっても足りないんじゃないだろうか。死人なんだから人口が減ることはないだろう。毎日毎日死んだ人が送られてきて人口は増える一方。そんな世界、気味が悪い。

 現在生きている人数よりも今までに死んだ人数の方が圧倒的に多い。考えてみれば当たり前なのだけれどどこか意外な気がする事実だ。死んだ人のことというのは、やっぱり申し訳ないけれどいつもいつも脳内にあるわけじゃない。死んだ直後とか命日とか一周忌とかそういう折に触れて思い出すものだ。もし自分たちが生きていなければ日々死者に思いを馳せることができるかもしれないけれど、こっちだって毎日を曲がりなりにも生きていかなければならない。だから死んだ人のことを累積的にというか積算的にというか、つながった存在として考えたことはなかった。これが「今まで死んだ人」なんていうことを思い浮かべたことが無かった理由かもしれない。

 屍の上に立つという言葉がある。この言葉でよく思い浮かべるのは民衆を導く自由の女神みたいな一人が数十人の上に立っている図だけれど、本当は違う。この世界自体がもっともっと多くの今まで生きてきた人たちの上にある。歪に重なりあった死体の上に地面がというか地球があって、その上で自分たちは生活している。

 こんな状態を思い浮かべてどう思うか。うえ気持ち悪いやと思うか、自分の生活は色んな人のおかげで成り立っているのだと実感し感謝し人生に邁進しようと思うのか。そしてこうやって簡単に使ってしまう人生という言葉の先には終着点があって死後の世界と一続きになっている。その終着点に辿り着いたとき自分は今よりももっと多くの人に囲まれて死後の世界で過ごすのだろう。なんだか死が楽しみになって来ただろうか。それとも怖くなって来ただろうか。よく分からないけれど心地よい眠気が自分を襲ってきたのが分かる。

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