この紋所が目に入らぬか!

 和室のちゃぶ台の上にいつも置いてあるそれをまじまじと見て思ったことは、これなんか印籠っぽいなあ、だった。冬も本番でホットカーペットにお世話になりつつも、急に畳が恋しくなった私は扉を開けて和室に来たというわけだ。

 そんな私に気づいたのか、おじいちゃんがこっちを振り返った。まだ何も言っていないのに、それは本物の印籠で自分が祖母から譲り受けたものだと説明してくれた。続けて、印鑑なんて持ち歩くことあったのと私が訊くと、無いと祖父は短く答え、たしかに本来は印鑑用の入れ物だったが、多くの人が薬を入れるのに使っていた、と教えてくれた。

 そう言われて納得した。薬は錠剤だったら失くしやすいし、身に着けておけば飲み忘れることもない。それに祖父の家系の女性は代々体が弱かったと父親から聞いたことがある。まあ、私はありがたいことに例外だけれど。ということは、かの水戸黄門も病気がちで薬を持ち歩きながら旅をしていたということなのだろうか。それとも本当に印鑑を持ち歩ていたのだろうか。

 でも彼にとってというか、あの勧善懲悪劇とでも言うのだろうか、にとって大事なのはそこではない。あの紋所こそが大事なのだ。あのマークが権力を物語り、人々の頭を下げさせる。なるほどなるほどと心の中で頷きつつ、目の前の印籠をそれらしく手で持って掲げてみる。そこで一言。この紋所が目に入らぬか!

 ちょうどコンビニで肉まんを買ってきてほしいと言いに来た姉と目が合ったが、姉は「ははー」と言って深々とお辞儀をしコートを羽織って出ていった。一瞬何が起こったかよく分からなかったけれど、もしかして本当に印籠に効果があったのだろうか。

 その様子を見ていた祖父が、美夜みや、それを返しなさいと言ってきたがついつい反射で印籠を私と祖父の間に掲げてしまった。すぐに祖父も正座して頭を下げた。台詞を声に出さなくてもよいということが分かった。

 私は姉の買ってきた肉まんをほおばりながら印籠の使い道を考えた。

 この効果には回数や時間、対象などに限りがあるのか。また効果の程度は如何ほどなのか。例えば、どこかの大統領に印籠を見せ、国土を我が国に譲渡せよと告げ印籠を見せたらどうなるのか、というようなことだ。まあ、そこまで大きく出なくても、遊んでみる価値はある。明日は月曜だからとりあえず学校で使ってみよう。もし上手くいかなかったら、こういう時代劇があるから真似してみたと言えばいい。小4で何人があの時代劇を認識してるかは分からないけど。


 この日から美夜の好きなものばかりが食卓に並んだし、美夜が信号待ちをすることもなくなった。学校でテストを受ける必要もなくなったし、登下校の時間帯はいつも晴天だった。家族で行った外食は美也が伝票をレジに印籠と一緒に持っていけば事足りた。もはや美夜にできないことなど無いように思われた。しかし、彼女は祖父の家の女性陣が病気がちだった理由を知らなかった。

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