病室の一輪挿し

 最近やっと回診を任せてもらえるようになった。

 回診というのは病棟に入院している患者さんたちのもとを回っていくことだ。世間話をしたり手術後の違和感などが無いか尋ねたり、予定されている手術に関して不安な点は無いかと尋ねたりする。


 僕はここ市立病院に春に研修を終えて配属された新米医師である。だからはじめは初歩の初歩みたいなことばかりをやっていたけれど、秋くらいに初めて担当の患者さんというものができた。つまり主治医に初めてなった。そしていまは複数人いる担当の患者さんが寝ているベッドのある病室を回って話を聞いているというわけだ。担当している患者さんが一つの部屋にまとまっているわけではないし、集団の病室に入っている患者さんもいれば、一人の病室を希望された患者さんもいる。だから結局はこの慣れなくて広い病院をぐるぐると歩くことになる。まあ、今は指導医の先生がついてくれているから、迷いはしないが慣れないことに変わりはない。それにナースの方とも顔なじみになっているから困っていたら助けてもらえる。


 ナースというのはすごい職業だと改めて思う。自分が患者として診療してもらうときは注射をしてくれる人とか待合室で質問してくる人くらいの認識しかない人が多いだろうし、入院した場合も身の回りのお世話をしてくれる人という認識ではないだろうか。しかし医者になって、バックヤードでも看護師さんと関わるようになると、いかに看護師さんの仕事が多岐にわたっていて、プロフェッショナルなのかということを思い知ることになる。患者さんの体を拭くときや病院食を出したり下げたりするときなどちょっとしたときでも、その作業を通して細やかなところまで患者さんに気を配っている。患者さんの小さな異変に気付き医師側が教えられるということも多々ある。

 だからこそ、東棟602号室のおばあさん、大久保美津代さんの病室に入るときには毎回違和感を覚えていた。これは正しかった。はじめは漠然と何かがおかしいと思うだけだったが、毎日通ううちに気づいた。掃除も行き届いているし、大久保さんも明るく、快方に向かっているのだが、部屋のある一点だけが淀んでいるのである。


 それは花。お見舞いにいくときに鉢は持って行ってはいけないとされている。それは病院に根を張る=治らないことを示すからだ。だからもちろん、鉢植えなど置いてあるはずもなく、あるのは病院側が準備して手入れしている一輪挿しのみ。こういったお手入れをするのもナースさんの仕事だ。

 だから僕は担当の阿部さんに医局で訊いた。


 どうして大久保さんのところの花だけ枯れたままなんですか。


 いや、いつもお仕事が丁寧なのは存じ上げているのですが、何かの手違いかなと思って、、、。


 自分でもよく分からないフォローを口にすると「ああ、あれはね」と阿部さんが話してくれた。

 自分を含めナースは全員、他の病室と同じように東棟602号室の花も見苦しくなる前に入れ替えていること。そしてそれにもかかわらず、枯れた花が毎回生けられていること。あるナースが自分の当番の日に少し朝早く病室に着くと大久保さんがきれいな花をゴミ箱に捨て、どこかからか出した萎れた花と入れ替えているのを目にしたこと。その日以来、ナースたちは、いつも通り花を替えるけれど、枯れたものになっていても気付いていないフリをすることに決めたらしい。業務不履行よりも患者さんの気分を害さないことを取ったわけだ。


 ちなみに大久保さんは延命治療中で一人用の病室も本人の希望によるものだ。


 かくいう僕も今朝、花を差し替える大久保さんの背中を見た。陽光を浴びつつ窓の外を見る大久保さんの背中はきらめいていた。

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