「先生」
この辺で先生と言えば小木敏夫のことを指す。ちなみに発音はせんせー。平社員という意味のペーペーと同じ発音だ。
一般名詞である「先生」が一個人を指しているのにはもちろん理由がある。簡単に言えば小木が独特だということだ。先生と言えばあの小木先生のこと、と思わせるほどの強調な印象が彼にはあるということになる。内面も独特なのだけれど、とりあえず外から見てもぱっと分かる特徴がある。
別に背がすごい高いとか太っているとか服装が奇抜だとかいうわけではない。むしろ外見は至って普通の中年のおじさんで、少し駅の近くに行けば同じような人を3人は見つけられるだろうというくらいありふれた見た目をしている。
しかし遠くから見ても、ああ、あそこを歩いているのは先生だと誰が見てもわかるのは、ジョウロのおかげだ。先生は外を歩くときいつもジョウロを持っているのだ。主に小木の外出は職場である公立高校——といっても非常勤講師だが――と家の往復でその時も欠かさず右手にはジョウロを持っている。左手にはよくある革のカバン。
はじめ赴任してきたときは歩いて通勤するというだけでも奇異の目で見られるというのにジョウロなんかを携帯するものだから、あっという間に噂になった。初めは囃し立ていた生徒たちだったが、その泰然とした態度に何か強いものを感じたらしく冷やかすことはなくなった。その代わりそのジョウロの理由に興味が集まって、ある日誰かが聞いた。そのジョウロは何ですか。
これを聞いた先生はイヤな顔せずに、というか大したことでもないように、花に水やり、とだけ短く答えた。先生は足を止めることなく学校へ歩き続けていた。生徒たちはそれ以上くわしく質問できなかったが、数分歩けば先生の返事に偽りがないことは明らかだった。
かろうじて残っている花壇のコスモスに少し水をかけたのだ。
ただそれだけのことだったが、生徒たちの中でこのとき何かが変わった。田舎だから子どもたちの態度の変化は親に伝わりあっという間に地域全体に伝わった。この頃から先生の奇妙さは知れ渡り、同時に「先生」の一語で伝わるようになった。小木は散歩中しおれかけている花を見つけた時に何もしてやれなかったことがあり、その夜ホームセンターでジョウロを購入したという。学校の備品は持ち帰りづらいから自分用を買ったという。
こうやって昔いた高校のことを思い出しながら歩いていると音のない足音を鳴らす白髪の老人に追い抜かれた。左手には杖、右手には緑色のジョウロだった。
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