「やる気スイッチ」ではなくて

「やる気スイッチ」という言葉が話題になった時期があった。あれはそういうものがある前提で、それを探し出して押すことに着目した文脈だったはずだ。しかし、それは本当だろうか。オン/オフで表せるものなのだろうか。やる気というものは。別に私は0と1によるデジタル的な処理に疑問を投げかけているのではない。すなわち、アナログな機構であれば納得できると言っているわけではない。やる気というもの―—ものというとどこか物質的な感じが否めないが――が自分の中に在るもしくは無いという捉え方が現実に即しているのかという点が気になるのである。


 というのが私が高校生だったときの話。教師陣が受験生である私たちに向かってやる気を出せなんて言う度にこんなことを考えていたものだ。いやはや、まったくひねくれた生徒である。大学教授となって学生を指導する立場になって何十年も経ったが、やはりそう思う。まあ、そんな従順じゃない学生の方がいたいところを突く質問を講義後にしてきたりするものだが。


 私は大学で生態学を学びながら心理学を取っていた。次第に脳科学まで手を広げるようになり、いざ蓋を開けてみればやる気に関する研究の素地はできあがっていたというわけだ。偶然にも配属希望を考える時期になって、人間の動機づけについて脳波を通した定量的な分析を専門にしている教授が赴任してきたので、その研究室に配属希望を出し無事配属された。


 そうして研究を進めていくにつれ自分で「やる気は物質である」という結論に科学的妥当性を与えていってしまった。高校生の僕が抱いていた疑念は的外れもいいところだったというわけだ。そしていま、世の中では当たり前のように「やる気」を目にするようになった。100円ショップにも「やる気」は売っている。当然のことながら100円ショップなので海外製の安かろう悪かろうの製品であるが、500mlで税抜き100円なのだから大したものだ。やりたくもない書類の確認などを溜めてしまったときなどに私も飲むことがある。


 質が悪いというのは、つまり質の悪い理由、動機によって生み出された「やる気」であるということで、強制的にチンパンジーに負荷を掛けて道具の製作に対して「やる気」を生ませ、それを機械で搾取しているだとか、発展途上国の工場で少年たちが3交代制で「やる気」を捻出しているなんて噂もある。もちろん、良質なものを売りにする専門店というのもある。いささか値は張るが曰く純粋な「やる気」を製品化したものらしく、友人が言うには確かに飲んだあとの精神状態がさわやからしい。


 まあ、私の研究が応用された結果、こんな感じで「やる気」は個人間で移動が可能なものになった。いまでは教育機関では何と言っているのだろうか。やる気があることは大事ですが、それよりも自らやる気を出すことが大事ですなんて教えるのだろうか。

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