ハンドルネームはパイン

 ふう、よかった。

 西松は安堵に浸っていた。

 彼はオーディションに受かっていたのだ。

 劇団の小さな練習場所で寝泊りしつつ学業とバイトを並行させていた彼にとって、今回の劇団厚切り厚揚げのオーディションは最後のチャンスだった。社会人になる前に演劇にじっくりと打ち込める最後の、正真正銘最後のチャンスだった。


 大学に入学してサークルなるものに入ってみようと思い立ったのはよかったものの、彼にはやりたいことなど大して存在していなかった。アーチェリーもソフトテニスも漫研も油絵同好会もどれも同じくらい魅力的で同じくらいつまらなそうだった。どれも花畑のなかの一つの花に過ぎなかった。そんなとき彼はビラ配りに飽きて木陰で休んでいる男女に話しかけられた。その熱心じゃない雰囲気に惹かれ思わず話に耳を傾けた。そのビラを見ることもせずに。


 彼らは演劇サークルだった。しかも学内の人気サークルではない方の演劇サークルだった。しっかりとした講師もいなければ集まる人数も日によってまちまち。結局、日々熱心に出ているのは目の前の二人だけという話らしい。二人は互いをサム、キャシーと呼び合っていた。その呼び名にいちいち反応してしまっている彼を見て二人は簡単な説明をしてくれた。私たちはこうやって海外風なハンドルネームをつけて呼び合っているの。それの方が雰囲気が出るでしょ。役者の自分って感じで。彼が納得したような納得していないような返事をしていると、いつの間にか彼はパインになっていた。


 こうして西松は授業とバイト以外の時間をパインとして過ごした。皆からパインと呼ばれ、ハンバーグのトッピングでパイナップルを頼んでみたり、缶詰コーナーのパイン缶を見てドキッとしてみたり、飴に親近感を感じたりという三年間を過ごした。サークルでも自主公演なんかはあったけれど、それとは別に個人練習もしていた。卒業が間近となった先輩たちに指導してもらったりしながら自分の腕を磨いていた。


 彼の持ち味はその変哲の無さ。どこにいても違和感のない風貌。くぐもるわけでも響くわけでもない声。絵に描いたような中肉中背。話し方は普段からおっとりとしていて誰と話していたかを忘れるくらいのアクしか感じられなかった。


 そんな西松だが演劇に掛ける情熱はサークル内では人一倍強く、というのは劇団厚切り厚揚げの特別公演のリーフレットから抜粋した文句だが、オーディションで見せたその横顔はすさまじいものだった。即興で投げかけられる「二日酔いのだるさを隠すカフェの店員」や「高齢の母親が作り置きした豚汁にほっとする独身中年男性」などのお題に見事に憑依して見せた。最後に彼に与えられたお題は「念願のオーディションに合格した冴えない青年」だった。


「うん、今、きみの演技は現実になったおめでとう」


 彼はこの言葉を聞いて涙を流した。

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