芋づる式と支柱

 芋づる式という言葉を知っている人は多いかもしれないが、その中の何割が実際に芋掘りをしたことがあるだろうか。少し寒くなってきただろうかという秋の日にこげ茶色の土に軍手をはめた手を突っ込んでいく。葉っぱが見えているつるの付近を掘っていき、つるの始まりを探し当てる。そして、ここだというところでその手を止めて周りを優しく掘ったあと一気に引っ張る。勢いよく、しかし、つるが切れないように。そのつるは地上に出てみると全貌が明らかになり、いくつもの芋が連なって出てくる。そう、これが芋づる式だ。


 こんな感じで一つの言葉がふと意識に引っ掛かり、それについて思いを巡らしてみる。その最中でまた別のことに思い当たる。今回は芋掘りの様子を思い浮かべていると軍手が私の中の何かに反応した。そう、それは私が小学生のときだっただろうか。


 一番仲のよかった友達と言い合いになり、お昼休みに泣きながら鬼ごっこを抜け出したことがあった。鬼ごっこで必死になっていた年頃だし、小学3年生くらいだろうか。もう、鬼ごっこやめる!と威勢よく言ったものの、鬼ごっこをすると言って友達と一緒に教室を飛び出した手前、教室には戻りづらく私は図書室にも行ったことがなかった。だからどこに行ったらいいか分からず正門裏のフェンスのあるあたりでしゃがみ込んでいた。

 多分、そのまま疲れで眠ってしまったのだろう。目が覚めると昼休みが終わる数分前で私のそばで校務員のおじさんが木を切りそろえていた。おお、起きたんだね。なんていいながらおじさんは座ったままの私に手を差し伸べてくれた。その手には土で汚れた大きな軍手がはまっていたはずだ。だから不思議と軍手には暖かなイメージがある。どこか包み込んでくれるような。すべてを許してくれるような。


 すべてを許してくれる。私はそんな人になりたいのかもしれない。でも、もうそんな人にはなれない。私はそのことをよく分かっている。私は人を許すことができなかった。赦すのほうがぴったりかもしれない。相手をそのまま受け入れる。このことの大切さを知るまでにたくさん傷ついてきた。そして、それ以上にたくさんの人をたくさん傷つけてしまった。自由奔放に伸びてゆくつるを支柱なんかで縛り付けずに、そのままを見て紙に鉛筆で写し取る。そのことがどれだけ難しいことか。そんなことは小学生の私のほうがよく分かっていたかもしれない。ずいぶんと遠回りをしたものだと自分のことながら呆れてしまう。いや、呆れるというのは自分自身に使うことのほうが多いかもしれない。


 ありがとう。私といっしょにいてくれて。愛想を尽かさないでいてくれて。

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