妻と通院

 あなたは家に帰ってはいけない。


 そう医者は僕に言った。家というのは今は麗子が一人で住んでいるマンションの506号室のことで、医者というのは麗子の主治医だ。僕と麗子の関係は何かと問われそうなのは分かっている。だから説明することにしよう、今から十数年前のことを。



 あの日、僕の帰りが遅くなったあの日、麗子は心配して駅に迎えに来てくれているところだった。確かに結婚してから2年、同棲期間を含めれば3年の間、僕の帰りが日付を回るということはなかったから、さぞ心配だっただろう。今となってはメールの一通くらい送っておけば、と思うが当時は若くて仕事で精一杯だったからそこまで頭が回っていなかった。


 改札から出てきた僕を見つけた麗子は駆け寄ってきた。僕も彼女の顔を見て一日の疲れが吹っ飛ぶ思いだった。だけど彼女は飲酒運転のトラックにはねられた。幸い救急車がすぐ到着したから死は免れたし、半身不随などにもならなかった。


 ただ脳に小さくない影響が出た。なぜ深夜に家を出て駅に向かったのかが思い出せないのだ。もちろん、帰りの遅い夫を心配して迎えに行くためだったのだが、麗子はそれを忘れていた。夫である僕の記憶ごと。しかし、しだいに容態が安定してくると夫を迎えに行ったということは思い出せたようだった。おそらく、一時帰宅のときに男物の衣類や二人分の食器などを目にしたからでしょう、と医者は言った。


 そうですか。当時の僕はうなだれながらもこう言った。でも、僕がきみの夫なんだと麗子に言って二人でその家で暮らせば、入院の必要はないですよね。そうしているうちに僕のことを思い出すかもしれないし。医者は首を横に振った。きみを見たら事故当時のことを思い出し、脳に負荷が一気にかかって容態が悪化してしまうかもしれない、と告げられた。彼女は夫が誰かは思い出せないけれど、その人のことが私は好きで、その人も私のことを好きだと言ってくれていた、と看護師に話しているらしい。彼女は現実を受け入れ始めているのかもしれない。


 現実を受け入れる。医者のその言葉だけが僕の頭の中で反響していた。麗子の退院の予定は一週間後。その日までに僕はこの自宅を出払って、別の場所から仕事に行かなければならなくなった。事情を話すと両親は落ち着くまでの間、実家に戻ってくればいいと言ってくれたし、僕があの家からいなくなる理由は医者が上手に伝えておくと言っていた。



 そして今も麗子の通院は続いている。二か月に一度、先生に様子を診てもらうのだ。とは言っても、たまに風邪薬を出してもらう程度でもっぱらは談笑である。彼女の通院に合わせて僕も通院する。隣の診察室に通してもらい麗子の声を聞き、出入りする姿をこっそりと伺う。


 幸せそうな麗子を見るこの時間がいまの僕の幸せな時間だ。

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