『絹と茨の聖書』

「創作者を慰め、そして再起不能にする」という謳い文句だけが独り歩きしている感は多少ある。だが、このフレーズが急流に揉まれて丸くなりながらも決して流されない石のように世間に鎮座するのは、やはりその内容が言い得て妙だからだろう。


 下を向いてしまった芸術家やクリエーターたちに一筋の光を拝ませたあと、その眩しさから彼らを失明させる劇薬、その本をそうやって喩えたのは明治の文豪だっただろうか。


 古くから読み継がれてきた『絹と茨の聖書』と訳されるその本は、今でも何か美術作品を文章を詩歌を曲を映像を生み出そうとする人は必読と言われている。だが内容については、原本にボロボロになって失われたしまったページがあったり、写本に写し間違いや誤訳などが見つかっていたりと未だに全貌が明らかになってないとされている。


 こんな調子だけれど抄本などにまとめられたために、よく知られた文章も一部ある。


【雨はあなたが悲観的になるのを助ける。しかし、いつかその雨は止む。そのとき喜ぶ者があれば一方で次なる嵐を待ち望む者もある。激情を招くのは激情である】


 この文章は、人生、悲しみばかりではないという励ましにも聞こえるし、絶望の淵に沈み切ることすら許してくれない冷酷なこの世の中に対する嘆きにも聞こえる。激情に関する文章についても、あなたの激情があなたをさらなる激情へと導くという意味なのか、創作者の激情こそが鑑賞者の激情を引き出すのだ、という意味なのかと解釈が割れている。


 もう一つこれと同じくらい有名な一節がある。


【薄氷の上を歩き、もう一度その美しさを見たいと思って引き返したとき、たちまち湖面にはひびが入る】


 これについても様々な解釈があるのは言わずもがなである。強欲への戒めだとか美しさの儚さだとかいうのが一般的である。より踏み込んだ解釈では、過去の思い出を嚙みしめようとするとその思い出を思い出すことは困難になる、というのがある。思い出そうとしないことが思い出を心に留めておく最良の策であるというメッセージが込められているとすれば『絹と茨の聖書』の著者がどのような体験をしたのか、というのも気になる。


 ちなみに著者については不詳である。不明とは違ってうっすら見当はついているがはっきりしないということである。一番有力とされている著者の名前が、とある物語の登場人物と同姓同名だという研究も最近、発表されたようだが。その物語の作者が作中の人物が書いたという設定にしたかったのかもしれないし、物語の人物の名前を借りてまったくの第三者が書いたという可能性もある。


 だが、こんな詮索は無粋というものだ。こういう何か神々しい魅力のある事物に対して人間が原理的に抱く畏怖の感覚というのが、またこの書物の輝きを増幅させているのかもしれない。


【鏡に映った自画像にあなたは驚くであろうか。もし驚いたとすればそれは何故だろうか】

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