嫌いなものを消せる紙

 今日も夜遅く電車に乗って家に帰る。暗い空までもが自分を嘲笑っている気がする。月も星もろくに見えないこのベッドタウンで妻と二人暮らし。子どもはできなかった。人に媚びることが苦手というのは自分でもよく分かっていたのだが、いつの間にか出世コースを逸れてしまっていた。逸れてるなぁ、なんて呑気に感じているうちに後輩にも追い越されていった。中年になってこのザマだから、もう望みはないだろう。


 改札で定期をかざす。これも毎日やっている動作だ。何の面白味もない。そんなこと当たり前なのだが。改札を通り過ぎようとしたとき何か出てきた。咄嗟の判断で取ってしまった。ちょうど切符と同じ大きさで真っ黒。前の人が取り忘れたのかと思ったが、あの人はいつも同じ電車に乗る人でもちろん定期を使っている人だ。


 じゃあこれは何なのか。いつもならつり革を持つ右手でまじまじと紙切れを見る。降りる駅までは25分くらいかかるから十分考える時間はある。そう思っていると頭の中に声が響いてきた。



 それは嫌いなものを思い浮かべると消せる紙

 死神の野郎がそれで遊んでたんだがうっかりしたみたいだな

 何でうっかりしたら人間界の改札から出てくるかは私にも分からない



 嫌いなものを消すとは何ともざっくりとした能力。詳しい説明が続くだろう、と思って待っていたが声はこれ以上聞こえてこなかった。どうしようか。とりあえず試してみるか。嫌いなもの、というのは物体という意味なのか、人という意味なのかも分からない。なんとなく辺りを見回すと育毛剤の車内広告が目に入った。育毛剤なんか効果がないから嫌いだ。日頃から思っていたことが頭に浮かんだ。


 次の瞬間、広告が別のものになった。この世から育毛剤が無くなればその広告は当然無くなるということだろうか。まあ、そういう解釈にしておこう。じゃあ人は。もう一度あたりを見回すとリュックサックを背負った大学生がいた。この満員電車の中で背負いやがって。前に回すのが常識だろ。そう思うと彼は消えた。私に嫌われたからだろう。これで効果が確かめられた。


 家に帰ると私は妻のつくってくれたご飯を食べながら色んな嫌いなものを思い浮かべた。妻とは最近しゃべっていない。数年前から夫婦仲は冷めきった。でも今でも晩ご飯をつくってラップをかけて置いておいてくれている。こうしてこれを食べていると妻のあたたかみが感じられてうれしい。私がもう少し早く帰って来れれば話もできるのだが。


 にんにく、ラーメンの海苔、ラベンダーの香水、丸文字、はんこ、パソコン、イヤホン、ロックバンド、ゲルインキのボールペン、ピンク色。嫌いなものはこんなものだろうか。次に嫌いな人。湯本部長、髪の長い若者、マフラーを改造したバイクに乗る人、語尾を伸ばす女、年寄りを十把一絡げに扱う人、ドヤ顔のコメンテーター。


 ここまで一気に思い浮かべた。今日はここまでで止めよう。




 起きて出社して仕事して退社して家に帰り着いた。たしかに私の嫌いなものや人は世の中から消えていた。テレビに嫌いな解説者はいなかったし、女性社員から気にくわない匂いもしなかったし、昼ご飯のラーメンもおいしかったし、上司も消えていた。夜もうるさいバイクの音は鳴らなかった。


 私はよく寝付けなかった。嫌なものが無い世界でも気分はよくなかった。嫌なものが無い世界も楽しくない。嫌なものを消したのに私は自分の好きにした世界も楽しめないのか。なんで私はこんななのだろうか。こんな私なんて、私は――。

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