どれもどれも消えてくれない
何をしようか。惰眠を貪るのにも飽きたしテレビは碌なのが無い。
ぼうっと虚空を見つめていても、何も起きなかったけれど壁に立てかけていたスケッチブックが目に入った。この粗めの質感が特徴的で私は好きだ。でも、絵が描けるわけでもないし、どうしようか。机の上にはまだ学校に通っていた頃にお世話になっていた黒のボールペンが転がっていた。最近はスマホを触ってばっかりでめっきり使っていなかった。じゃあこいつらを使うことにしようか。
ボールペンでスケッチブックに、はて、何をかこうか。絵は無理だから文字を書くしかない。何か自作の詩でも書こうか。一瞬そう思ったが気恥ずかしいし、そんな才能もない。代わりに何かを書き写すことにしようか。書き写すといえば写経が真っ先に思い浮かんだけど、そういった類のものとは縁がない。そう思っていると、何が呼び水になったか、好きな歌手の曲の歌詞を書き写していた友人のことを思い出した。顔は思い出せない。そうだ。そうしよう。私も好きな曲ならいくつかある。
一応、間違えたらいけないからスマホで歌詞を調べる。「ひび割れレンズ」っと。出てきた。じゃあ一行ずつ写していくことにしよう。
「ひび割れレンズ」
くもりの日に いつもあなたを思い出す
濡れてしまった長いまつ毛 途切れ途切れの高い声
今はこれしか思い出せない 長かった日々の最後の一コマ
世界はこんな色だったっけ 白い壁は答えてくれない
いないあなたを感じたいの いないあなたを感じたいの
淡い黄色に いつもあなたを思い出す
細かく揺れた小さな両肩 遠ざかってゆくヒールの音
今もこれしか思い出せない たった数分それだけのこと
落ちる夕焼け真っ赤っか 右手は何も握っていない
いないあなたが感じられるの 何もしなくても
空いたベンチの右側 余った食器のひとセット
どれもどれも消えてくれない
どれもどれも消えてくれない
書き終わった。スケッチブックが同じ大きさの文字で埋められている。きれいとはお世辞でも言えない文字。白い紙の上に黒い塊が少しずつ落ちてる。そんな風に感じるのが自然な気がする。手書きにはエネルギーがある。多分。それがどういう種類のエネルギーかは分からない。負のエネルギーかもしれない。
自分で書いたはずの文字たちが急によそよそしく感じられてきた。いまにも意思を持って動き出しそうで怖い。スケッチブックのぺージから、むくっと体を起こしてこちらに向かってきそうだ。
どれもどれも消えてくれない
どれもどれも消えてくれない
この最後のフレーズのリフレインが頭から離れない。私の心はさっきより落ち着いたかもしれない。何かが消えてくれたのだろうか。何かが消えてしまったのだろうか。いまの私には分からない。
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