何事も経験——

 何事も経験


 この言葉が口癖な友達がいる。彼と車に乗りながら話していたり、彼と一緒に買い物に行ったり、彼と一緒にカフェに行ったり、そんなとき、いつも彼は会話のどこかでこの言葉を口にする。意識すらしていないらしく、たまに「また言った」と指摘すると、「えっ、そう?」ととぼけたような返事が返ってくる。でも多分、本当に無意識なんだろう。別に私に言ってるのでもないのだろう。こう、その場に対して発しているというか、自分自身に言い聞かせているというか。

 彼は高校からの付き合いで社会人の中堅となった今でも、こうして半年に一遍くらい会う。いつからか何事も経験という言葉を彼は使いだした。こんな風に口癖になっていると思い始めたのはここ数年のことだろうか。それにしても最近はこの傾向が強まっている気がする。何事も経験とは、どんなことでも人生の糧や肥しになるのだ、という意味だろう。この考え方はかなりパワフルだし、悟っているとも言えるだろう。少なからず高校のときの彼はこんな考えの持ち主でなかった気がするが、それもそうかもしれない。だって私たちはあの時から今に至るまで色んなことを経験したから。でも私と彼の人生は違うものだし、実際、高校を卒業した後はあまり接点はなかった。彼は進学し私は就職した。成人式にも私は出なかったから会うことはなかった。

 東南アジア支社に私が配属になって数年たったころ、現地スタッフの紹介で行った飲み屋が再開の場所だった。そこの主人とジョークを飛ばしていたのが彼だった。現地スタッフも日本人がめずらしかったのか、「彼も日本人みたいだね、君の知り合いだったり」と笑っていた。世界は狭いとは言えどそれは流石に、と思いながら顔を見てみると知り合いだった、というか友人だった。彼も私の視線に気づいたようだった。そのあと主人が店を貸し切りにしてくれ、四人で夜更けまで語り合ったのは言うまでもない。今でも名物の濃い酒を飲むとあのときのことを思い出す。

 いつだったか彼と神奈川のバーで飲んだ時、彼はめずらしく深酔いしていた。酔ったらだんまりになるタイプだというのは今までの付き合いで知っていたが、その日は特に酷かった。眠ってしまったのかと思って名前を呼ぶとその都度、起きてるよと短く答えた後、バーテンと僕の会話を再現してみせた。そうは言っても、彼を見るに既にフラフラだしこれ以上深酒もさせられないので、帰ることにした。ほら、と声を掛けると徐に彼が口を開いた。


 「お前さぁ、『何事も経験』が俺の口癖になってるって言ったじゃねぇか。あれにはぁ続きがあってよぉ、『だけどあんな経験、もうしたくないの』って続くんだよ」


 彼の目は真剣でどこか遠くを見ているようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る