弘明と紗江、娘の早苗

 なんだかんだ幸せな生活を山中弘明は送っていた。弘明はおよそ十年前に離婚した妻、大野紗江との暮らしを享受していた。離婚した後の方がすっきりしているというのはよく言ったものだと彼は感心していた。とはいえ本格的に同居を再開したわけではなく、いまは娘探しのための期間限定だった。妻、いや元妻のつくった冷やし中華のキュウリをしゃきしゃきいわせながら弘明は回想していた。離婚した当時、二人は小4の娘を弘明の兄の家、つまり彼女からすれば伯父さんの家に預けることにした。紗江は夫の不倫による精神的ダメージもあり、一人で冷静になる時間が欲しいと言ったし、ひと一人を養う経済的な余裕もなかった。それに彼女の両親は二人とも既に亡くなっていた。そこで弘明が養育費を稼ぎ兄の家に渡すということになったのだ。彼の兄の家には子どももおらず快諾してくれた。



 大学に進学した大野早苗はやる気に満ちていた。今までお世話になっていた伯父さん一家に入学金と一人暮らし先の家賃だけは払ってもらい、その他の光熱費や食費、学費は自分でバイトで稼ぐと伯父さんと話し合って決めたのだ。そしていまはもう夏休み。手探りではあるものの講義とバイトの両立させ無事、単位を落とすこともなく前期の講義を終えた彼女の頭はある予定でいっぱいだった。これが友達と海とかだったら平和なのだが、そうではなかった。これは早苗の過去にも関係してくる。早苗が小学四年生だったころ両親が離婚。理由は自分の弟、つまりきみのお父さんの不倫。以来、弘明は僕の口座に養育費という名目で振り込みをしている。母の居場所を聞くと僕も分からない、と申し訳なさそうに弘明の兄、正明は言った。だが正明は弘明が最後に寄こした電話のときに告げた彼の住所というのを早苗に教えた。



 そう、早苗は弘明の家を訪れようとしていたのである。夜行バスで三千円、そして在来線で数十分、そこにはメモにあるマンションがあった。ちなみに角部屋である。早苗は母を愛していた。同時に母を悲しませた父を憎んでいた。もちろん正明の前ではそんな素振りは見せない。しかし両親の顔はおぼろげだった。二人と居た時間の長さは伯父と居た時間とさして変わらなくなっていた。早苗は駅の近くにあった百円ショップで包丁を買った。別にすぐに父親をどうこうしようという気は無かったが、万が一、見苦しい弁解をしたときや母親の居場所を渋ったときにでも脅しで使おうと考えていた。エレベーターの中で自分のことを不審者だと嘲りながらも、ケースから取り出した光る刀身を眺めていた。



 私、ちょっと買い物行ってくる。紗江は弘明にそう言うやいなやエコバッグを手に取ってスニーカーを履いた。勢いよくドアを開けるとエレベーターから女の子が出てきた。ちょうど娘くらいの年かしら、幼かった娘が成長したらこんな顔つきだろうかと思っていると、一瞥された。


 早苗は端の部屋から出てきた女を見た。何人目の女なのだろうか。しかもどことなく顔つきが母に似ている気もする。早苗の頭は父への怒りによって支配され、包丁の柄を強く握った。


 紗江の行ってきますと鍵を閉める音がしないことを不審に思った弘明は玄関口に向かった。そのとき、紗江の叫ぶ声が聞こえた。そこには紗江が倒れていて、包丁を握った娘が自分を睨みつけていた。

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