ウミ

 あまりに強すぎる夏の日差し。じめっとした空気と肌に貼り付くTシャツ。海に来たところで泳ぐわけではない。私は泳げないし、泳ぐ気もない。ただ、私と手を繋いでいるこの幼子が「おじいちゃん、ウミを見たい」と言うから、ウミを見てみたいと言うから、連れてきたのだ。ウミ。この子は海をウミと発音する。少なからず私には海ではなくウミに聞こえる。この子は海を知らない。知ってたいるのは言葉としての海だけ。かつての存在としての海だけ。話の中で語られる海だけ。

 陸よりも広くて陸よりも低い場所に水があった。それは海と呼ばれていた。その水は濃度約3パーセントの塩水で魚や海藻、貝などがいる生命の宝庫だった。そもそもすべての生物の祖先は海にいた微生物である。

 こんなことを最近の子は小学校で習うのだ。そう娘が教えてくれたことがある。娘はもう少し詳しいことを学校で習ったそうだが、それでも海を見たことのある私たちの世代とは認識がまるで違う。ちょうど私たちの世代が海を知る最後の世代と言われている。子どもの頃に海に足だけ使ってパシャパシャと遊ぶと、塩水なものだからベトベトした感じが残った。だから簡易的なシャワーで流したものだった。こんなことを言ってもまず信じてもらえない。ウミには水があったというのを知識でしか知らない人たちにとって具体的なことまで想像できないのは当たり前かもしれない。「海を風化させない」いまはそんなスローガンが唱えられるご時世だから。

 しかし私の実家が所有している山の裾野は海に面していた。ほんの小さな内海。産官学のどれからも見落とされた小さな海。それでも海は海である。そんなことを娘家族を訪ねたときにぽろっと口に出していたらしく、それを孫が覚えていたらしい。だから夏休みに連れて行ってあげて。到底、絵日記なんかにはかけないけどね。娘はそう付け足した。

 さらさらと風に揺れる波紋。あいにく砂浜はちょっとしかなくて走り抜けるとか夕日を追いかけるなんてことはできないが、それでもウミと砂浜という組み合わせがこの子には新鮮だったらしく、水に触れるより先に海水を含んだ砂の上で飛び跳ねている。それに飽きた頃こっちを向いて「この水は触っていい水?」と聞いてきた。ああ、と答えるとそれを聞いて恐る恐る小さな手を伸ばす。冷たいんだね、そう感想を言ってこの子はサンダルを履いたまま海に入っていった。


 「海ってきもちいんだね」


 孫の声はとても明るかった。

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