懐古趣味

 私は今まで何をしていたのだろうか、そんなことを回想していて良い気分になったことなど生きててこのかた一度もないが、それも当然のことだろう、と自分の中で納得がいってしまうのがまた心を暗鬱にせしめる原因であることもしかり、やはり一時的に懐古的な気持ちになって心地よくなることは否めない。


 そんなどこか矛盾したような、はじめは心地よくなるものの最後には後悔と罪悪感に溢れるという状態は人付き合いにあるのだと思われる、いや人付き合いにあるのである。こう断言するのが適当であるし、こう断言せねばならない理由を大分に私は背負っている、やはり長い時間生きていると自分が背負う責任だとか罪だとかというのは否応なしに増えてゆくものである。


 こう生きてみて、いざ振り返るとそのことをよく実感する、いや体現しているとでも言うのだろうか。親しくなった人の中でもかなり親しくなった人というのは珍しく、大体その人たちとはお別れしてしまっている、その原因は相手側にもあるのだろうがおそらく主な原因は私であり、そう考える方が楽である。なぜこうも大切にしたいと思える人から私と疎遠になっていってしまうのだろうか。やはり強く当たればその分、傷付くという奴であろうか。永遠を誓ったりすればするほど終わりが近づいてくるのは不変の法則か何かなのだろうか。まあ、そんな事象は母数自体が少なかったのであるが。


 段々と会話の雲行きが怪しくなっていくあの感覚、いつも通りとはどんなものだったのかと考え始めるあの一瞬、そんなものは知りたくなかったし、知らずに一生を終えてゆく人もいるのかもしれないと思うと羨望以上のものを感じざるを得ない。何が違うのか、どこで間違えたのか、こんな陳腐で生産性のない問を反芻するのを許してくれる時間というのは一日のうち決まり決まって訪れる。その存在をやっかむときもあれば、早く来ないかと待ち焦がれるときもある。いやはや勝手なものである。


 昔を思い出し、未来に思いを馳せ、現実からは目を背ける。そんな流れ作業を生涯ずっと行ってきたのかもしれない。現実を直視することは難しいわりに得られるものは少ないのかもしれない、このことに気づいてしまってからはもう何をする気も起きなかったとも言える。悲しいかな。周りを見渡せば私のような人は少ないように見え、それが不安と幾何の安心感、世の中は終わってないのだという安堵を与えてくれる。みな持ち合わせているものの隠し通しているという可能性も捨てきれないのが残念なことではあるけれども。


 さて、何をしようか。もっと昔のことでも思い出すか、それともつい最近のことでも思い出そうか。今年で何歳になったのだったかしら。

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