幸せの基準

 僕は変わってるらしい。同僚いわく僕は幸せの基準が低いらしい。なんで僕がいっつも微笑んでいるか、とか、なぜいつも余裕そうか、とかいうのを突き詰めたらこの結論に至ったらしい。自分ではよく分からないのだが幸せの基準が低い、つまり小さなことでも幸せだと感じられるからいつも笑ってて余裕そうに見えるのだ、という。

 このことを言われてから幸せとは何か、とかいう歴史の中で使い古されたであろう質問が頭の中を漂うようになった。辞書を引いてみると「心が満ち足りていること」と書いてあった。はて、僕の心は満ち足りているのだろうか。まったく、そんな気はしない。じゃあ、「幸せ」という単語が使われる場面を考えてみよう。甲子園出場が叶って幸せです.志望校に合格できて幸せです。ぱっと思いつくのはこんなところだろうか。まあ、こんな大きなことがなくても僕は幸せそうに見えるのだろう。それがすなわち、幸せの基準が低い、なのだろう。

 幸せ、幸せ、幸せ、この言葉を脳内で繰り返しているうちに、自分はある人のことを思い浮かべていた。


「今日、階段の下で猫に会ったよ。三毛猫。かわいかった~。幸せだよ」


「買ってきたプリンおいしくて幸せ、二個買ってきたから、どーぞ」


「一緒に居れて今日も幸せ」


 一つひとつ場面が思い出された。この人は幸せという言葉を頻繁に使うんだな、と確かこのときは思っていた。でも、いま思えばどれも幸せという言葉にふさわしい場面な気がする。同僚から見れば僕もこんな感じなのだろうか。分からない。でも僕には同じだと思えない。いま思い出したのは本当の幸せであって、同僚たちが僕に感じているのは僕の感覚麻痺による幸せだろう。


 基準とは不思議なものだ。頑ななようで意外にもすぐ変容する。金銭感覚もその一つ。ひとたび豊かな生活に慣れてしまえば、数十円のために遠いスーパーに通っていたことやタイムセールの時間を狙っていたことなんて忘れてしまう。


 人間の脳は優秀で、思い出すと心が傷ついてしまうようなことは滅多なことでは思い出させてくれない。だって思い出したら自分が傷ついてしまうから。そう考えれば僕が昔の場面を思い出せたのは、同僚の言葉を発端とするぐるぐるとした思考のおかげだろうか。


 同僚に話す気はないが、自分なりに自分の幸せの基準が低い理由が分かった気がする。昔が幸せ過ぎた。だから幸せの基準が上がってしまった。でも、その幸せは維持されなかった。僕の心は防衛反応として幸せの基準を下げた。こうすれば昔のような幸せを求めるために昔を思い出そうとして苦しむこともないから。ちょっとしたことで幸せだと思うことができれば満足できれば、それでよいから。


 そして皮肉なことに、小さなことの中に——もはや小さなことでもないのかもしれないけれど―—幸せを見つけるというのが昔の君と重なったのだ。


 いま君は幸せかい。

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