大川哲也はここにはいない!!

 私の夫は急にどうしたのだろう。いつもは10時くらいまで寝ている日曜の朝6時にむくっと起き上がって、勢いよく寝室のドアを開け、水を一杯飲んだ後、黒のペンと赤のペンを出してくれ、と私をせっつき力強くその2本を握りしめ、パジャマ姿のまま外に出た。そんな恰好で、と言おうとしたけど日曜のこの時間、あたりに人はあまり居ないし、何しろ夫は周りなんて気にしない勢いだ。


 よし、これで上等だろ。そう言った夫は私にペンを押し付けて寝室に鼻息荒く戻って行った。はて何事だろう。訝らずにはいられなかった私は家の扉を開けて外に出てみた。別に変わった様子もない。ご近所に迷惑をかけた風も見られない。なんだ寝ぼけていただけなのだろうか、そう思いかけたときだった。


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|大川哲也はここにはいない!!|

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と書き殴られた文字を見つけた。赤い枠に黒い文字。それが扉に力強く書いてある。一瞬、息子たちや近所の子どものいたずらかと思ったけれど、昨晩こんなものはなかったし、この早朝にだれかが書いたとも思えない。ペンの色や太さも一致するし、このインクの乾き具合、やはり、さっき夫が書いたものだろう。


 それにしても意味が分からない。大川哲也とは夫の名前だが、まず文章の意味が分からないし、この家は夫が何から何まで注文して作った思い入れの強いマイホームだ。こうやって油性ペンで書き殴るなんて正気の沙汰とは思えない。


 まあ、その通りだった。正気ではなかったらしい。10時過ぎに何事もなかったように起きてきた夫に、なんで今朝6時くらいに起きてきたの、と問うと起きてないよ馬鹿言うんじゃないよ日曜に。と言われた。やはり何も覚えていないようで、しぶる夫に玄関の殴り書きを見せると、とんでもない剣幕で怒り出した。息子を大声で呼びつけたので、そんな早くにあの子たちが起きてるわけないじゃない、となだめた。そしてあなたがやったのよとも言った。信じてくれない夫に、背の高さから言ってもあなたしかいないじゃないと言うと納得はしてくれたようだ。


 それでも、書いた当人も意味は分からないようだ。いきなり起きて何かをし始めるというのは何らかの症状としてはよくあるらしいが、こんなにも明瞭な字で意味の通った文を書きつつも意図が分からないというのは説明がつかないらしい。全て完全には納得していない夫が自分で調べたことだが。


 おい、よく考えたらおかしいじゃないか、夫は私に急にそう声を掛けた。だって、ここにはいないとあんなに主張したらいると言っているようなものじゃないか。何なんだあれは。俺はどうしてあんなことを書いたんだ。




 人間の脳は7割程度は使われていないのだという。今回は、それが文字となって顕現したに過ぎないのかもしれない。

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