今日も今日とて

 今日も僕はキャンバスを汚す。自分の心がこれ以上汚れてしまうのを防ぐために、せっせと汚す。昨日は赤に紫を重ねた。ドリッピングでこれでもかと色を重ねた。ちょっとずつ黒を混ぜて。段々と彩度を落として。結局じれったくなって黒をそのまま散らかしたりした。


 今日は山吹色。パレットにそのまま出した絵の具を右手に思いっきり付けて、手形なんて分からないくらいにずらしながら重ねる。一昨日の自分を昨日の自分が覆い隠したように、今日の僕は昨日の僕を一生懸命に消していく。こうやって過去を消していく。過去が見えないようにしようとしている自分が、一番過去を忘れることに執着している。そんなことはこの大きなキャンバスをイーゼルに立てかけたときから分かっている。


 今日もいい一日だった。そんな風に思ったことは生まれてこの方、一度もないかもしれない。でも、その代わりに毎日を生き続けることができているのかもしれない。明日は頑張ろう。そんな安っぽい感情でもしかしたら僕は動いているのかもしれない。だから多分、満たされてしまったら、もう生きる気力なんて消え失せてしまうんだろう。


 今日は僕は何をしたんだろう。


 今日、僕は何ができたんだろう。


 今日はあんなことを言ってしまった。


 今日は。今日は。今日は――。日付も回っているというのにこんなことを考えてしまう。寝返りを意図的に打ちながら。このベッドの脇に人型の深い穴があったらどれだけ便利だったろうか。ふっと重心をずらすだけで、奈落の底、とまではいかなくても重力に身を任せて、残り一分にも満たないであろう人生を謳歌できるのだ。電気の消えた部屋で僕はいっつもこんなことを考えている。でも生憎そんな穴は現れてくれない。やっぱりこっちから出向かないといけないのだろう。でも、わざわざベッドから出て、窓を開けてスリッパを履いて柵に腕を置き体を前に倒す、こんな冗長な過程の中で僕は正気に戻ってしまう。


 今日もやっぱりそうだ。中途半端に僕は毎晩感傷的になる。オペラみたいに悲観的に泣き叫ぶくらい悲観的になれればまた事情は違うのであろう。そんな才能は僕にはなく、毎晩毎晩毎晩毎晩、僕の心がじわっと蝕まれていく。そんな日々を繰り返している。スマートフォンを眺めても、昔を思い出しても何も起きない。ただ自分が消耗していくだけだ。はぁ。どうにもできないことほど人はどうにかしたくなるのだろう。こんな気づきが非常に実感を持ってきた。


 今日は違った。暗闇の中、寝ぼけまなこで下を見ると床のない部分があった。現れていた。僕は数秒間脳裏に過去を思い浮かべて、身体をゆすった。ベッドのふかふかとした感覚は消え去っていった。

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