今にある昔を待って

 そう、私は卑怯者。そんなことは誰よりも知っている気でいるし、実際誰よりもよく分かっているだろう。でも、ただ一人私が卑怯者だと私よりよく分かっている人がいるかもしれない。いや、確実に分かっているだろうし、どちらかというと身に染みているといった感じだろうか。なんだろうか、こう肌で感じているというか。まあ、いいや御託は。でも、その人は決してそんなことを言わない。きみは卑怯者だと明言することはもちろん、そんな思いを仄めかすようなことすら口にしない。そう彼はそんな人だったのだ。私はいつも彼を鏡にして生きてきたようなものだった。だから彼がいなくなると私は私が分からなくなった。いま、自分がどんな顔をしているのか、何を思っているのか、何が言いたいのか。いつからだったろうか。磁石はずっと互いにN極とS極を向けていればいいのに、どちらかが相手に見せる自分を変えてしまう。そのときにもう片方が相手に合わせられればよいのだけれど、それがうまくいかなかったとき途端に両者は離れていってしまう。この単純な事実に気づいたときはもう遅い。どうしようもなく離れたままに歩んでいくしかないのだ。

 細いペンが紡いだ線で描いたような日常。色付きのインクを使うことなんてない。そんな思いで流れゆく時を見つめていても、夜は訪れすぐさま太陽に追いやられる。分からない。自分が何を望んでいるのか。彼はその点上手だった。彼自身が何を望んでいるのかは私にはさっぱり分からなかったが、彼の望みは私の望みらしいということだけははっきりしていた。だから私の望みはいつも彼から引き出されていたといっても差し支えない。彼が私の望みを叶えてくれるのだ。

 でも、こんな話も本当に遠い昔のこと。私のおぼろげな記憶はほとんど形をとどめていない。琥珀に包まれたきれいな葉っぱもいつかは朽ちてしまう。だから私はにぎやかないつもに囲まれながらも時折いつかに意識を向けていたのだった。もし、彼に会えたら。織姫と彦星ほど頻繁でなくてもいいから。死んでしまう前に一目見たい。でも、会ってしまったらもう後戻りはできない気がする。何もかもが変わってしまう気がする。私が不器用に積み上げてきたものなんて一瞬で瓦解しそう。それで崩れたレンガたちを彼は一緒に拾ってくれるだろうか。ふと、そんな形で彼の晩節の邪魔をしてしまうのはとてもよくないことである気がした。

 だから私は思い立った。この辺境にたどり着く唯一の駅に努める妹に、見たことのない私と同じくらいの年の男が来たら電話を掛けてくれと。そして今日の昼過ぎに妹からその電話が来た。私は慌てながらも石を積み上げ、好きな花を添えて、少し遠くからその場をずっと眺めていた。

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