エレベーターにて

 これは何気ない日常の話。


 13階までエレベーターを呼びつけて、1階に行こうとする男。暇そうに待っている。背丈は普通くらい。いや、普通と言ったらちょっとは高いと本人に訂正されそうなくらい。よそいきと部屋着の間みたいな位置づけの黒のズボン。それに、色が落ちかけたモスグリーンのTシャツ。背中にはのたうち回る棒人間のイラスト。ポケットに突っ込んだ手を手持無沙汰に出し入れしている。コンビニにタバコでも買いに行くのだろうか。未だにメビウスをマイルドセブンと言って店員を困らせていそうだ。下に落ちているゴミは拾われても、蜘蛛の巣までは手が回らない。ここはそんな清掃業者が入っているようなマンションなのだ。


 ガチャン


 少し不機嫌そうに男は乗り込む。時間を気にしているのだろうか。箱は動き出すも、あまり加速しない。


 ガチャン


 男の予想は的中して、その箱は止まった。10階。乗り込んできたのはベビーカーを押している母親。時間的にも幼稚園児が占領する前に、公園にでも行くのであろう。母親は子供がぐずっていないことを幸いと感じつつも、エレベーターで人に乗り合わせたことに対して気まずそうな表情を浮かべる。のかと思いきや、イライラしてそうな男を前に無表情を貫く。


 ガタッ


 溝につまずくベビーカー。焦る母親と端によけつつ開くボタンをずっと押す男。すみません、と小声で言う母親。まだ男はボタンを押している。別にこれ以上二人の間に会話は発生しない。だから何だと言われれば何でもない。男は手を放す。


 男はベビーカーの中の子どもに目をやる。母親は後ろ向きにベビーカーを引いて入ってきたから、少し左下の方を見ればぎりぎり彼の視野に収まるのだ。スマホを左手でズボンの左ポケットから出して画面を見る。同時にさりげなく、なにげなく、男はその子を観察する。箱は減速する。


 ガチャン


 2階。母親も男も、2階なら階段使った方が早いだろうに、と思ったに違いない。それでも、そこにいたのはお洒落なステッキを持った微笑がお似合いのご老人。二人とも仕方がないかと合点がいった様子だ。それでも、乗れないことに変わりはない。おまけに老人は大きめのリュックを背負っている。山にでも行くのだろうか。

 一瞬のうちに事態を察するご老人。老人が事態を悟ったことまでを悟った男は右手で扉を抑えながら、箱から出てご老人に、どうぞと一声かけた。


 悪いね、ありがとう。そう言って老人は中に入った。リュックは爆弾が無くなったから見た目ほど重くはなかった。その「悪いね」という言葉が聞こえたかは定かではないが、男はエレベーターから出た途端、階段を猛スピードで駆け上がった。


『ベビーカーの子のお兄ちゃんは余命3分 目覚ましは爆発音』

 画面に映っているこの通知を見たときから男の心拍数は一気に上がっていた。


 そう、これは何気ない日常の話。

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