脱色、染色、同系色

 すごい楽しい夢を見ていた気がする。思い出そうとしても、もう無理だ。昔のこと。あの日々から、大して月日は流れていないのに。カレンダーを一枚めくっただけなのに。思い出せない理由は分かってる。自分で忘れようとしたから。おかげで何か楽しいことがあった。心がときめいた日々があった。何かのために、誰かのために捧げた日々があった。何かに狂って心を注いだ日々があった。そんな抽象的な思い出しか残っていないのはそういうわけだ。それでも、たまに思い出す。長雨が止んだ時、よかったと晴々とした気持ちになったとき、そんな顔をしていた君を思い出す。きれいな海を高速から見下ろしたとき。たった一瞬見えただけの海にはしゃいだ君。「そうなんだ!」と「ねえねえ、」が口癖だった君。ドアの隙間風が怖かった君。でもなんか、きれいな声みたいじゃない?と言ったら、確かに!って言って耳を澄ませて、それでまた驚いた君。


 すべて過去のこと。昔あったことは過去のこと。そんな当たり前を君のせいで、君のおかげで思い知った。トンネルを抜けると、別に雪国ではなかったけどそこは明るかった。後ろを振り返るとそこも明るかったはずだという記憶だけがある。それでも、あんな、ここから見たら真っ暗な場所に自ら、もう一回戻るほどの気力は残っていない。とりあえず、この外の世界で楽しいことを探すことにする。ここにも鳥は飛んでいる。雀やトンビ。トンネルの中とは違う世界。当たり前だけど。灰色の世界に君は色をくれた。鮮烈な色。今まで人生で出会ったことのなかった色。あり得ないくらい鮮やかで煽情的で温度が高かった。すっごい楽しかった。それでその色が落ちていった今、何色も残っていない。はじめにあったうっすらとした灰色もどこかに行ってしまった。絵の具のパレットというのは何回も使っていると何色ともつかない色だけが残っていく。白いプラスチックのところどころに有彩色がつくった無彩色が居座る。自分はこれだけ使い込んだんだ。そういう思いもこみあげてくる。


 道に迷っている仔猫。いかにも迷っていそうな子はこちらに気づくとあっという間に消えていく。今まで気にも留めていなかった堂々とした子がこちらをぼーっと見ていたりする。あの子にはだれもエサをあげない。あいにく手持ちもない。それでも、目が合っただけで満足みたいだ。どこかに消えていった。それはあのトンネルの中だった。ついていってみてもよかったのだけれど、まだ怖かった。その場所がいかに楽しいかを知っているから。昔よりもよく知っているから。どれだけ魅力的かを知っているから。

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